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「茨城46億年後の一期一会 .7」1996

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<高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記7 4日目最終日>

4日目/8月3日(土)「割烹旅館かわたけからゴール犬吠埼まで」

女将さん大いに喜ぶ!

4日目の朝も大変だった。朝食を終え、クソをしようとトイレへ行ったら、新妻君もいて連れグソとなった。それはいいのだが、トイレがみな塞がっていたのだ。そりゃあそうだ。サッカー軍団が一気にクソをし始めたのだから。

「オー、マイ、ガァッ!」想わず頭を抱える新妻君。
仕方無く、二階のトイレへ行ってみたのだが、ここもいっぱい。
「オー、マイ、ガァッ!」またもや頭を抱える新妻君。

中では同じようにあぶれた少年達が、青ざめた顔で右往左往している。どうしようもないので、歯を磨いたり荷物を整理したりして時間をつぶし、クソラッシュが終わるのを待つことにした。

そして、ようやく用を足し、三人全員の準備が終わって出発と言うことになったのだが、料金を払うためフロントへ行くと、出て来た女将さんが何やらニコニコして、やたら上機嫌なのである。しかも、

「今日は気分がいいから、ひとり7'000円のところ1'000円ずつおまけして6'000円、消費税もビール代もおまけしとくわ」と言い出したのだ。

と言うことは・・
、三人分合計23'175円のところ、18'000円。つまり、5'175円も得をすると言うことになる。ふとっぱらー!。いやはや、有り難いことは有り難いが、いったいどうなってんだ?

初めは、スポーツ合宿の騒々しさのお詫びなのかと想った。しかしそれなら、「申し訳無いから」とでも言いそうなものである。それが「気分がいいから」と来た。これにはもっと違う意味が有るはずだ。話しをしながら、あれこれ考えた結果、キャプテンの心当たりはひとつだけだった。それはブレード隊が・・

「心から感謝を込めて食事をいただいた」と言うことに違いない。

夕食も朝食も、とにかく食事だけは粗末にはしなかった。たぶんその話しを、調理係のオバサンから伝え聞いたのだろう。それを、サッカー軍団のひどい「食い散らかし」と比較してしまったものだから堪らない。「なんて気持ちの良い青年達なの。ナイスガイ!」などと感動してしまったのに違いない。だから「気分がいい」のである。

それしか考えられなかった。何しろほかに取り柄の無い男達なんだから。勝手な解釈だったが、だんだんこっちまで気分良くなって来た。それはいいが、まずいことにキャプテンがその気になってしまったらしいのだ。なんと彼は、フロントのカウンターに肩肘ついてシャに構え、一番いい声など使って話し始めたではないか。ナイスガイのつもりなのか?

表に出て出発の準備をしていると、女将さんも出て来て「ブレード」を見ながら言った。
「それでずーっと滑って行くの?。転ばない?」
「それが、めったに転ばないもんなんですよ」
キャプテンと森広君が同時に答える。

・・と言った直後、森広君が旅館の駐車場で、足慣らしの最中に転倒してしまったからたまらない。みんなで見て見ぬふりをするのだった。

それにしても、初めて出会った人に好感を持ってもらい、こちらも気分を良くして出発する、これこそが『一期一会』の神髄であり、ブレード隊が目指して来たものではなかっただろうか。

訳も分からず、何かの衝動に駆られて始めてしまった長距離ブレード走行。その意味を、4年たってようやくその本人たちが理解し始めたのだ。

「すべては、うまく行く、必ず・・」

準備が終わって出発。・・朝、目が覚めたときには小雨模様だったが、今はもうやんでいる。路面もほとんどが乾いていた。ただ、曇り空は取れず、やや肌寒い景色の中を進むことになった。昨日、走行中に『〇〇サイクリングロード』と言う標示板を確認しており、今日はそのサイクリングロードを行ってみることになっていた。

国道124号から離れ、『ホテル・リオ』の看板が有る交差点から、利根川方面へと進む。サイクリングロードだから川沿いに有るはずだ、と確信を持って行ったのだが、川っぷちには、それらしき道は見当たらなかった。利根川の川面が汚れた灰色にテカっていて、何とはなし気分が沈みがちになる。

「わかった、向こう岸だ」と言うことで、そのまま1kmは有るかと想われる長い橋の歩道をよたよたと渡り、「向こう岸」まで来てみた。しかし、やはりサイクリングロードは無いようである。いや、土手沿いに細々と続いているあのジャリ道がそうなのかも知れない。だとしたらダメだ。ジャリ道ではブレードは進めない。三人はそのまま先へ進むことにした。

利根川を渡り切って、土手下まで道を下る。真っすぐ行けば国道356号に出るのだが、途中、川沿いの田んぼの中に狭い道を見つけ、そこを行くことにした。その道は路面状態が非常に良く、車も通らない。ほとんどサイクリングロードみたいなものだった。そこからずっと数百m、田んぼだけの道を、無言のままゆったりと滑り続けた。

静かだった。そして流れる風には、実り始めた稲穂の匂いが含まれていた。その匂いは、一瞬の内にキャプテンを、幼い日の夏休みに引き戻してしまうのだった。

強く熱い風にゆったりと波打つ田んぼ。そして大きな影を落として通り過ぎる雲。・・あの日、あのあぜ道の上に置き忘れたものを、今こうして拾い集めているのだろうか。

曇り空と灰色の川面に沈んでいた心が、次第に解きほぐされて行くのが解る。
このまま、何も考えずにずっと滑って行けたら・・

しかし、そうも行かなかった。田んぼ道が終わり、家並みの中に入って行くと、それまで滑らかだった路面が粗くなり、道も入り組んで来た。そして工事中などで迂回したり、見知らぬ家の間を縫っている内、何度か迷い、最後はとうとう行き止まりにはまってしまった。

その後も、いくつか道を選んでは走行を試みるがダメ。とうとう交通量の多い国道356号に出なければならなくなった。

「あっち、行って見ませんか? 線路の向こう」
新妻君が、356号を渡って、反対側に伸びている脇道へ行こうと提案した。それは『成田線』の踏み切りを越え、その向こうの山すそまで続いている道だった。

「ためしに行ってみるか・・」
と言うことで進んで見ると、線路を渡って間もなく、山伝いに走る旧道らしき道に突き当たった。その道は国道356と平行に銚子方面に向かっているようで、しかも立派な歩道がついていた。

「オーケー、この道を行こう」
そこからは、ほとんど苦労なしに滑ることが出来た。新妻君の状態を考慮してスピードは抑え気味だが、彼も想像を絶する忍耐力で滑り続けている。何より、疲れても明るさを失わないのが良い。これなら、よほどのことが無い限りリタイアは無いだろう。

そう言えば・・、キャプテンは、新妻君に関するあるエピソードを想い出していた。それは出発の数日前のこと。彼に、ブレード走行に参加するか否か、確認の電話をした時の話しである。

受話器を取った新妻君はかなり酒に酔っていた。「ブレードですかあ? 行きますよー、行くしかないでしょう。有森・・、女子マラソン? 見ましたか? あれですよ、有森」

「ああ見たよ。たぶん見てるだろうと想って、終わるのを待ってかけたんだ」
「初めて自分を誉めたい、ですよ」

どうも彼は、アトランタ・オリンピックの女子マラソンを見て感動し、そのハズミでブレード出発の意志を固めてしまったようなのである。

つまり、『オリンピックが無かったら、平凡な夏でした』と言うコピーをバックに、「四年前は水泳始めるって言ったんだよな」と家族にバカにされながら、「ほな、行って来るわ」と夜のジョギングに出発する、月停八方。あれが新妻君なのである。

まてよ、そう言えば、新妻君が初めてブレード隊に参加したのも確か、4年前だったんじゃないの? ・・さて、単なる偶然なのでしょうか?。ともかく、コマーシャル通りに行動する人間もまた、貴重だと言えよう。


ついに銚子市に到達!

356号の裏道は想っていた以上に快適な道だった。何より車の数が少ないのがいい。つい速度が上がり気味になってしまう。そのまま、知らない内に『銚子市』に入っていたようだ。

今日はずっと雲が取れそうにない。路面温度は25℃に満たず、肌寒ささえ感じる。

キャプテンは、目的地の長崎海岸の様子が気になっていた。このまま曇り続けたら海で泳げなくなるかも知れない。ブレード隊はそれでもまあ良いが、今日合流するはずのゴブリンズのメンバーはガッカリすることだろう。そのことを想い、少しピッチが上がった。

夏の海と言うのは、とにかく天気さえ良ければ全てが許されてしまうのである。多少幹事に不手際が有っても、宿や料理に問題が有ったとしても。しかし、この天気では・・。今回のキャンプの総合幹事・新妻君を、出来るだけ早めに到着させ、色々準備を済ませて待ち受けたいところだ。ただし、本人はそれどころではない様子だが。

幾つか小さな町の、小さな商店の前を通り過ぎ、小学校を横目に前進する。次第に汗が流れ始める。湿気が多いのだ。

いつの間にか歩道が無くなり、路側帯も無い田舎道となった。何度か登り下りを繰り返し、時折り新妻君の姿を確認しながら、目の前の山や森の姿を眺めていた。

風景もまた『一期一会』に違いない、そんなことを考えた。こんな場所へ来たのは初めてだし、再び訪れるとも想えない。目に映る全ての風景が、ほんの一瞬ブレード隊の背景となり、流れては消えて行く、それだけなのだ。

いや、それは本当は逆で、ブレード隊の方が、道の彼方から果てまでの舞台を横切る通行人として、ほんのチョイ役で登場しただけなのかも知れない。その土地は、彼らが来る以前も、そして去ったあとも、同じようにそこに存在し続けるのだから。

「だとしたら、オレ達はいったい何処へ行こうとしているのだろう」

田舎道には案内板も無く、番地表示のプレートも見当たらない。しんと静まり返った路面には、ただホイールの転がる音が響いているだけなのである。

坂を上り切ったところに、運送会社の広い駐車場が見えて来た。その前で止まり、今日最初の休憩を取ることになった。

座り込んで地図を取り出し、おおよその位置を確認する。それによると、もう少し行ったところで成田線の踏み切りを渡ることになるらしい。そこを過ぎて、残りはあと15kmほど。新妻君の足を考慮し時速5kmと言う設定で行けばあと3時間、午後1時半には到着出来ると言う見込である。

日曜日、運送会社は休みだった。ブレード隊は駐車場の隅で立ちションをし、それから先へ進むのだった。

坂を下って間もなく、踏み切りを渡る。そこから山深い道を抜けて少し広めのT字路を左に行くと、また交通量の多い356号に合流した。ブレード隊は『銚子市市街方面→』の標示板を確かめた。

356号の歩道を滑り初めてすぐ、道には商店が並び賑わいを見せ始めた。人通りも多く、緊張を強いられての走行となる。街なかと言うことで、新妻君がまた人目を気にするのではと想ったが、四日間も滑っているので大丈夫そうである。あとのもう一人、森広君は「羞恥心の無い男」なので心配は無い。

それより気をつけなければならないのは、脇道からの自転車や車の飛び出しだった。つい調子に乗って速度を上げると大変なことになりそうだ。それでも、道が平坦なうちにスパートをかけておかなければならない。このさき犬吠埼の岬近くは、アップダウンが多くなると予想されるからである。

ところが新妻君にはその意図が伝わらないらしく、珍しく機嫌が悪くなって来た。大変なのは解っているが、ペース配分はキャプテンが把握しているので、頑張ってもらうしかない。そうやって完走すれば必ず、「自分を誉めてあげたい」と言う気分になれると想う。

銚子駅に続く交差点の隅で休憩することにした。朝、東京を出発しているはずのゴブリンズのメンバーと連絡を取ろうとしたが、携帯電話にかけると留守電になっていてつながらなかった。

その間に森広君は、商店街にソバ屋を見つけたようで、「ソバでも食いますかあ」などと言い始めた。時間はちょうどお昼時だが、ここではまだエンジンを切りたくない。午後1時前に海岸まで出てしまいたいのだ。そこで、

「もう少し先に行ってからにしよう」

と言ったのだが、そのあとで、そうか森広君の場合は、腹が減ると機嫌が悪くなると言う傾向が有ったのだ、と想い出した。そう言うキャプテンには、機嫌が悪くてイライラしている人を見ていると、いい加減にしろよと機嫌が悪くなってしまう性質が有り、まずい、このままだと三人とも機嫌が悪くなってしまうぞ、と言うことで、恐る恐る出発することになったのである。


銚子にてライスカレーを昼食に

駅前に続く歩道は、石畳でガタガタと滑りにくい。そこで車道に降り、路側帯を行くことにする。何度か道を確かめ、標示板を見ては『犬吠埼方面』を選んで進んで行く。

やがて、駅前の賑わいを離れ、せまい雑然とした民家の立ち並ぶ道へと入って行った。その道は想ったより急な登り坂だった。おまけに犬吠埼と銚子市街との抜け道らしく、車の数が多くて想うように進めない。

イメージとしては、もっと港寄りの平坦な道を想定していたのだが、いつの間にか山側に迷い込んでしまったようである。しかしガッカリすることはない。この旅にはツキが有るはず。この道を通ることになったのも、初めから予定されていた意味の有ることに違いないのだ。

ほとんど神憑りだ・・。そんなことを考えながら、最後の難関となるであろう登り坂を、一歩一歩確かめるように上って行った。

さっきから新妻君は、「だあ!」とか「おっりゃ!」とか、奇声を発しながら進んでいた。それは、ふざけていると言うのでは無く、激痛で失われる寸前の気力を奮い立たそうとしている気合なのだった。もう無理は出来なかった。新妻君の足は今度こそ限界なのだ。

間もなく登りのピークを過ぎ、ゆっくりと下り坂が始まった。民家も途切れがちで、少し殺風景な見晴しとなっていた。新妻君は相変わらず大声で気合を入れている。「大丈夫か?」と声をかけるが、黙って何も答えない。

下りに身を任せながら滑って行くと、やがて海が見えて来た。そのまま港まで降りて行く。とうとう関東の東突端まで来たのだ。海鹿島海水浴場の近くである。道沿いには土産物屋などが見え、観光地っぽくなった。

海岸通りを進み、竹久夢二詩碑のある辺りを過ぎて、岬に沿ってカーブして行くと、視界が開けて大きな海が見えて来た。その先には、遠く犬吠埼の灯台も見えている。

これで到着したも同然だ。灯台まで視覚的には遠いが、距離は1kmちょっと。同じく灯台からキャンプ地の長崎海岸までが1kmちょっと。つまり計2km強で完走だ。時間にして約20分と言うところか。ただし、灯台近辺で昼食を取ろうと想っているから、あと1時間ぐらいはかかる。時刻はいま午後1時、たぶん到着は2時過ぎになるだろう。

三人はスピードを出さず、歩くより少し早い程度で滑っていた。もう急いでも同じである。それよりも風景を楽しもう。空はずっと曇ったままだが、煙った海にも風情が有る。

弓なりにゆっくりカーブして行く海岸通りを、何台もの車が灯台に向かって通り過ぎて行った。その間に、少しずつ灯台の姿が大きくなって、上っている観光客の姿が確認出来るくらいになった。・・あそこからブレード隊も見えているのだろうか。

その灯台を見ながら、やっとのことで犬吠埼入り口に到着。新妻君にはそこでブレードを脱いでもらい、キャプテンと森広君が先に灯台の下まで滑って行く。そこが、ともかく今回の『高萩-犬吠埼ブレード走行』の第一到達点と言うことになる。

二人がブレードを脱いでいると、すぐに新妻君が歩いて来た。その場でカメラを取り出し記念撮影を始める。

「やらないんですか、オブジェ設置は」新妻君が辺りを見回しながら言った。
キャプテンは長崎海岸にて設置する予定だったので「まだだよ」と答えたのだが、彼はちょっと不満そうである。

「そうか・・、やっぱり犬なんだな」と森広君が言った。
その声に、ああ、なるほどと想った。
「犬吠埼に置くつもりで、犬を彫っていたと言うわけだ」

「犬か・・」キャプテンも気づいてそう問い詰めるが、新妻君は笑っているだけである。犬吠埼だから犬。やはりタケをワったような性格である。

肌寒い風が吹いていた。見上げると、曇りで眺めは悪いはずなのに、たくさんの人が灯台に上っていた。

「よし、メシを食おう。なにを食う?」
と、キャプテンは尋ねたのだが、三人にはすでに決めていたメニューが有ったのだ。

「ライスカレーだ!」

銚子と言えば『ライスカレー』なのである。それは、倉本総脚本のドラマ『ライスカレー』の舞台が、カナダと、ここ『銚子』だったからなのだ。

・・かつて同じ銚子工業高校野球部に所属し、卒業後カナダで『ライスカレー屋』を成功させようと、青春の最後を賭けて旅立った二人の若者の物語。三人ともそのドラマを見ており、やはり各自『銚子でライスカレーを』と言う覚悟?は出来ていたようだ。

三人は「キャフェテリヤ風」な店には「チッ」っと舌打ちをし、出来るだけ「食堂」と言った感じの店を探した。そして相応しい店を見つけて入ると、三人とも判で押したように『ライスカレー』を注文・・しようとしたが、残念なことにメニューに書かれて有った文字は『カレーライス』

「これも時代の流れよ・・」とあきらめかけたその時だった。新妻君が果敢にも、店員のオバサンに、「ライスカレー!三つ」と注文、イッカツしたのである。

その勇気にキャプテンも感動。そうだ、やれば出来るじゃないか新妻!と心の中で念じる。

だがオバサンは、一瞬の沈黙が有って、「はいっ、カレーライス三つ、ひとつ大盛りね」と、クールに言い残し、去って行ったのである。ガックリと肩を落とすブレード隊。と、その時だった。

「しっ、しまったあ!」とキャプテン。
「どうしたんですか?」
「見ろ! 水の入ったコップには、あらかじめスプーンが差し込まれていなければならないのだ」

三つのコップにはただ水が入っているだけだった。これですでに二アウトだ。『カレーライス』に『スプーンの入っていないコップ』

「残るは、グリンピースか」
『でれーっとしたカレーの上に、グリンピースが決まりで三つ!』
アキラ(陣内孝則)のセリフを想い出していた。

と、その時だった。
「あれ? 加山雄三?」
新妻君が、店の奥に飾ってあるサイン色紙を見つけた。

「ニセモノじゃないの。加の口が無い」
と森広君が続ける。
「力山雄三?」
「力山雄三だって?。それじゃエノケソと同じだ」

キャプテンの例えは古過ぎたようである。盛んに二人が気にするので振り返って見てみると、なるほど色紙が有って『力山雄三』のように見える。しかし、良く見ると『カ』の横に小さく◯のような『口』が書かれているような気もして・・。芸能人のサインにしては読み安すぎるのが気になったが、本物のサインを見たことが無いから何とも言えない。

と、その時だった。新妻君が果敢にもオバサンに問い正したのだ。
「あれ、加山雄三ですか?」
・・オバサンは無言で何も答えなかった。

そうこうしている内『ライスカレー』が届いた。さて・・「有った!」確かにグリンピースが三つ、でれーっとしたカレーの上に乗っている。これでいいのだ、これで。もっとも森広君のカレーには二つしか乗っていなかったが、これは野手の間に落ちたポテンヒットと言うことにしておこう。

あとは『放っておくと、うすーいまくの張るやつ。』と言うのを確認しなければならないが、腹が減っているので、それは省略することにした。

ひとくちライスカレーを味わったキャプテンは、『うまいって言うより、懐かしい味だな』と言うBJ(中井貴一)のセリフを想い出していた。

そしてそのあとすぐ、『そうか・・。うん、懐かしい味のするカレーが作りたかったんだ』と言うケン(時任三郎)のセリフを想い出していた。

さらに締めくくりに、『ドキドキしていた。そのとき僕は、とてもおかしなことを・・考えていたんだ』と言うケン(時任三郎)のナレーションを想い出していた。

このままだと、キャプテンは気が変になってしまいそうだった。


長崎海岸、ゴブリンズ夏のキャンプ地へ

携帯電話が圏外なので、公衆電話から『民宿大盛丸』へ連絡を入れて見ると、ゴブリンズのメンバーはすでに到着、海岸へ向かったと言う返事だった。安心したような、申し訳無いような気持ちだった。天気さえ良ければ問題は無いのだが、曇ってこんなに肌寒いとなると、海にも入れず退屈しているのに違いない。

昼食を終え、ソフトクリームを食べながら休んでいると、犬吠埼の断崖の上から、長崎海岸が小さく見えているのに気づいた。そこには海の家らしき小屋も見えている。

「たぶん今、あの何処かにメンバーがいるはずだ」
そう考えるとちょっと不思議な気がした。

四日前に100km以上離れた場所から出発したブレード隊が、今日まったく反対方向の100km以上離れた場所から来たメンバー達と、あの海辺で合流しようとしている。待ち合わせしているのだから当たり前だ、と言われたらそれまでだ。しかし、待ち合わせをする関係になるまで、どれほどの偶然を経てここまで来たのか、それを考えていたのだ。

たとえば今、周囲を歩き回っているたくさんの観光客の中に、誰ひとりとして知り合いはいない。そしてこの先、この人達と『待ち合わせ』をすることになる確立など、万に一つより小さいだろう。そのことを想えば、あの海辺での約束は、数年、いや数十年もかかった末の『待ち合わせの1日』であると言えなくもない。

「用意された旅。約束の地」・・
これも確かに一期一会と言うわけだ」

46億年の長い地球の歴史から見れば、ゴブリンズの8年間など、ほんの一瞬の出来事でしかない。つまり、一期一会みたいなものなのだ。それにしても、その「ほんの一瞬」の、長いこと長いこと・・。その間に、何を失って何を得たのか。

キャプテンはそのまま、ぼんやりと海を見ていた。灰色の海の沖からは、いく筋もの白い波が岸に打ち寄せていた。それは途切れることなく、現れては消えて行く波の最後の姿だった。

間もなく三人は全ての準備を終え、最終走行へと滑り出す。たくさんの見知らぬ観光客の間を擦り抜け、海岸通りへ。すぐに歩道に乗って、ゆったりと進む。

右手に犬吠ホテル。その先を左に折れ、坂道を下る。やがて長崎町の小さな家並みが見えて来ると、少しだけ足元が暖かくなった。海も灰色からうっすらと青く色を変えている。

四日目の午後、少しだけ薄日が射し始めたのだ。






おわり


ブレード走行・高萩-犬吠埼
日程:1996年7月31日~8月3日
天気:31日・晴/1日・晴-曇
    2日・曇/3日・小雨-曇
最高路面温度:40℃
走行距離:135km
述べ走行時間:約24時間
平均速度:約5.6km
通算走行距離:キャプテン高橋/1087.1km
       新妻英利   /436.9km
       森広康二   /293.2km


★走行中製作された三人のオブジェは、長崎海岸に設置されました。

写真下、新妻英利作「犬」



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「霞ヶ浦自転車道」2009

< 霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009 > ★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。 当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。 が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。 ★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・ 決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。 けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。 隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。 そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。 そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲

「高崎伊勢崎自転車道」2010

<高崎伊勢崎自転車道「井野 - 伊勢崎 51.9km」2010> ◎ 井野ー伊勢崎 GPS走行ログ ★2010年5月2日、インラインスケートによる、群馬ブレード走行を行いました。今回は「高崎伊勢崎自転車道」と言うサイクリングロードを、高橋、土屋、遠藤の三名で滑りました。集合駅は両毛線「井野駅」。そこから数百メートル離れたスタート地点から出発、ゴールは自転車道沿いにある、伊勢崎市の「まちかどステーション」と言うバスの待合室。 当初、走行距離は「42km」の予定でしたが、途中コースを間違えて引き返したり、工事中の迂回で大回りしたりなど、少しずつ距離が増えて行き、けっきょくは「51.9km(iPhone・GPS測量による)」と言う、大変な距離を滑ることになってしまいました。「体力の限界」という言葉が有りますが、本気でそれを味わいました。 それがどんな道のりだったのか。ほんの一部ですが、デジカメで撮影したムービーなどを参照してみてください。デジカメのレンズにホコリが入ってしまい、多少見づらい部分が有ります。(修理の見積もりを出してもらったら2万円近くかかるとのことで、そのままになってます) ただし体力の限界のため?、残り約8kmと言うことろで、撮影やブログアップなど、何もする気力が無くなってしまい、残念ながら終盤部分のムービーなどが有りません。ご了承願います。 パンラマ写真・土屋氏提供 走行中に送った写メール 出発です。伊野駅から川沿いの自転車道へ 出発から10kmほど。大きな公園内で休憩 広々として野球場が見えて来ました 道を間違えましたが、ついでに昼食 緑の中の気持ちいい道 だいぶ疲労して来ました。景色も単調? 野球見物は何故か楽しい。休憩ついでに 51.9km 終了!。疲れました・・。スーパー銭湯までタクシーを呼びます

「飯倉 - いいおかみなと公園」2016

◎ ブレード隊走行ログ ★2016年5月5日。1年ぶりに、恒例の「ブレード隊」インラインスケート走行が行われました。今回はブレード隊の原点である「海岸線ルート」を選択。とは言え、公道はなるべく避けて通りたいので、主に農道や、海岸線のサイクリングロード(太平洋岸自転車道)を滑りました。 ただし、隊長:高橋は、年齢による体力の衰えと、足首周りの故障のため、インラインスケートではなく、より消耗の少ないキックスケーター(左写真・もちろん大人用)を使用しています。そのため、カメラは手持ちではなく、スケーターに直接取り付けまして、そのせいで、動画には振動とカラカラと言う車輪のノイズがかなり入っております。 さて、1992年に、初のインラインスケートによる長距離走行「八王子 - 富士吉田・約80km」を行ったときは、国道413号の公道にもかかわらず、すれ違う沿道の人々に歓迎され、励まされ、ついには白バイの警察官にまで、わざわざ拡声器で「ガンバレ!」との応援をいただき、力を得て進んだものですが・・ 包容力に満ちたあの時代から二十数年・・ ネット社会になってからと言うもの、正義の名の下に、自分たちの意にそぐわない者は、立ち上がることも出来ないほど寄ってたかって潰される、と言う現状を見るにつけ、世代が入れ替わり、「包容力」の意味も通じなくなったかのような世の中で、今になって、あえて一般道を滑るのはどんなもんだろう?、と言う不安も確かに有りました。 ですが、すれ違う農家の方々はみな好意的で、みな会釈してくれたし、笑顔で「楽しそう!」とか「頑張って!」とも声をかけていただきました。‥‥まことにありがたい話しです。農道は公道ではなく私道扱いなので、言わば人んちの庭を滑っているようなもの。なのでもちろん、こちらから頭を下げて通らせていただきましたよ。 いちおう、法律的な解釈を以下に記しておきます。 道路交通法第76条(禁止行為) 「交通のひんぱんな道路において、 球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること」 動画を見てもらえれば分かりますが、「交通のひんぱんな道路」と言う条件には当てはまらず、よって禁止行為には当たらないことになります。むしろ動画は、映像にアクセントをつけるため、数十分のストックの中から、わざと車の写ってる部分をピックアップしたくらいです。条件を考慮せず

「渡良瀬川自転車道」2011

<渡良瀬川自転車道「小俣 - 藤岡 37.6km」2011> ◎ EveryTrai「小俣ー藤岡 ルートログ」 ★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。 震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルし、次回以降に期待しようと想いました。ですが、震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。 試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになりました。で、震災から2、3日後でしたか、これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると日本経済沈没の危機になりかねない、との直感が働くようになりました。 ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。 たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。 そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも普通の暮らしを」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。 それにしても東京都知事の、東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。 同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。 さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡

「手賀沼周回ルートへ行った、が・・」2013

 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5kmは

GOBLINS・ブレード隊とは?

★ 「ブレード隊とは?」 草野球チーム・ゴブリンズを母体とし、そのメンバーの中から、インラインスケートによる長距離走行をするために集まったチーム。 1990年、元ゴブリンズのメンバーで当時NY在住のM氏から、セントラルパークで流行し始めていた「ローラーブレード・ゼトラ303」を、ゴブリンズのキャプテン高橋が、帰国土産として手渡されたことから始まる前代未聞の旅のお話しである。  記念すべき最初の走行は、高橋による単独走行。ローラーブレードを手に入れてから2年後の1992年6月、「道志道」と呼ばれたアップダウンの険しい*国道413を、八王子から富士山(山中湖)を目指して、単独インラインスケートによる約80kmを、二日かけて走破することに成功した。 (*国道413:2020東京オリンピック自転車ロードレースのコースとなった道) 2006年までに走破した全ルート 同じ1992年の8月、その話しに興味を持ったゴブリンズ新人で10歳下の新妻が初参加。インラインスケートによって、千葉駅から天津小湊の民宿までの162.2kmを、真夏の炎天下、四日間かけて二人で走破。これが後々、伝説として語り継がれる?「ブレード隊」誕生の瞬間であった。 「ブレード隊命名」・・当時の日本では、まだ「インラインスケート」との呼び名は無く、一列に並んだローラースケートは全て「ローラーブレード」と呼ばれていた。そこで我々も複数メンバーによる走行を略して「ブレード隊」と呼ぶことにした。 しかし、まだ動画はおろか携帯電話さえ無い時代。それゆえ、当初は高橋による手記「走行記」と言う形で発表。その後、初の記録動画としてまとめられるまでには、さらに20年以上の歳月が過ぎるのを待たねばならなかった。(動画はYouTube:一部は限定公開) 動画以前、走行記の目次 ◇ ブレード走行記(文章形式)目次

「茨城46億年後の一期一会 .2」1996

1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来