スキップしてメイン コンテンツに移動

「南房総に夏の終わりの夢を見た・前編」1992


「南房総に夏の終わりの夢を見た」前編

★1992年8月21日(金)15時。キャプテン高橋とゴブリンズ新人・新妻英利は、ついに総武本線千葉駅から鴨川キャンプの拠点、民宿ウエダ(天津小湊町)までの162.2キロをローラー・ブレードによって走破する事に成功。これは前回の東京−富士間77.5キロを、84.7キロ上回る距離であった。

千葉 - 鴨川ブレード走行記
1日目 〜 2日目「千葉駅 〜 木更津 〜 鋸南町」


待ち合わせは千葉駅

嵐が幾つか通り過ぎる頃、空はどこか澄んで、別の季節の色を見せていた。6月の『東京—富士ブレード走行』から、約2カ月、常にキャプテン高橋の胸に去来していたイメージは、南房総のまぶしく輝く海、熱い夏の空気を切り裂く、ブレード・ランナーの姿だった。

8月18日火曜日、9時半。総武本線の終点、千葉駅のホームで、高橋、新妻の両者は、ブレード走行決行のために待ち合わせた。新人・新妻英利君は、果たして心強い伴走者となるのか、それとも単なる足手まといとなるのか、それは誰にも解らなかった。

天気は曇り気味。雨を予感させる黒い雲も漂っていた。南では台風が近づいていると言う。天候はどうなるのか、全く予測が立たなかった。

二人は『総武線千葉駅ホームの進行方向一番前』で会うことにした。気持ちを『前向き』にするため『一番前』を選んだのだ。しかし、ここは終着駅なので、折り返して電車が出発すると『一番うしろ』になってしまう欠点が有った。だが、そんな事にかまってはいられない。二人は勇躍駅を後にした。


快調な滑りだし、16号

16号沿いの歩道で用意をする。前回強烈な靴ずれの痛みに悩まされただけに、今回は、テーピング、ワセリン、ガムテープで、対策に万全を期す。用意が済んで立ち上がると、お巡りさんが自転車を止めてじっと見ているのに気づいた。二人は何も悪い事をしていなかったが、逃げるように出発した。

出発10時、天気晴れ、路面温度30℃。この辺りは歩道も広く、新妻君は快調な滑りだしに喜びの表情を見せていた。しかし彼はこの時、この旅の本当の厳しさに、まだ気づいてはいなかったのである。

新妻君のマシンはカナダ製の『バウワー』と言う代物。ローラー・ブレードとは違うメーカーの製品だ。まだ購入してから3日ぐらいしかたっていないせいか、スケーティングにスピード感が無かった。しばらくは彼を先頭に回し、自由にペースを取れるようにした。

30分程滑って、最初の休憩をとる事にした。陽差しがかなり強くなって来る。路面温度は40℃を越えていた。二人は陽焼け止めを塗ることにした。


あまりに場違いな昼食

16号の単調な道が続く。ところどころ歩道が無くなると、仕方なく車道を滑らねばならず、凄い音を立てて通り過ぎるトラックに肝を冷やす。しだいに排気ガスで気分が悪くなってくる。

八幡を過ぎ、五井を過ぎて工場地帯に入った。この辺りから四角い石畳の歩道が現れる。これが隙間に雑草が生えてたりして走りにくく、嫌気がさした。そこで通りを渡って右側に行ってみると、素晴らしく滑らかな歩道が有るではないか。もう少し早く気づけば良かった。

出発から2時間あまり経って、あまりの暑さと疲労で、限界に来た。姉ヶ崎の辺りで昼食を取ることに決める。道路沿いに「喫茶レストラン」の看板を見つけた。二人は入り口の前まで滑って行き、ブレードを脱いだ。

新妻君は片足脱いで、「たまらん!」と言った。初めは何の意味か解らなかったが、やがて脱いだ後の解放感を表現しているのだと解った。何処で覚えたのかは知らない。もう一方を脱ぐとまた、「たまらん!」と言った。

どれほど「たまらん」のかと言うと、誰もが一度は経験あるだろうアイススケートを思い出してもらえば解る。スケート靴を履いて2時間滑ったらどれほど疲れるか。それを1日に約6〜7時間も続けようと言うのだから、ちょっとマトモじゃない。

キャプテンが荷を片付けるのに手間取っていると、新妻君は先に入り口へ向かっていた。キャプテンも急いで片付け、後を追う。ところが、「お気軽にお入りください」と書いてあったので、お気軽に入っていったのだが、これがなんと、あまりに場違いな店だったのだ。そこは自動車教習所の休憩所で、生徒が合間に利用する店だったのである。

店の中は若い女性が多く、冷ややかな視線が汗まみれの二人を襲う。店のおばさんも平静を保っているように見えるのは見せかけで、「いらっしゃいませ」と、水を運んでくるその腰つきがやけに引き気味である。

「すっげえ、場違い!」新妻君は大きな声でそう言い放ってから席についた。

それはある種、手負いの獅子の威嚇のようにも思えた。彼らはサンドイッチとオレンジジュースを頼んだが、数十分の場違いな時間にすっかり恐縮したまま食事をして、外に出た。

それでも、休憩と昼食で二人の体力気力は回復した。強い風が気持ち良かった。

「たまらん!」

風を浴びて新妻君が言った。ついでに顔面に冷却スプレーも浴びせていた。今日の目的地、木更津まであと約20km。


塩吹くキャプテン高橋

少しずつ、風景が変わって来るのが解った。右側は東京湾に面した工場地帯だが、左側には山や農家が見え始めていた。二人はずっと右側の歩道を滑っていたが、その滑らかな道も次第に荒れて来たので、反対側に渡ることにした。

その時新妻君は、キャプテンのTシャツが、塩の粉を吹いて白くなっているのに気づき驚いていた。路面温度45.5℃。一日目の最高温度であった。このままでは汗かきのキャプテンは、塩化ナトリウムが不足して心臓マヒを起こしてしまうかも知れない。何処かでスポーツドリンクを補給しなければ・・。今回お世話になったのは『アクエリアス・ネオ』であった。何故か、他の飲み物よりすごく冷えているように感じた。

道はやや車の通りが少なくなって来たようだ。広く眩しいアスファルト。鮮やかな空。地平から立ち上る大きな雲。

「たまらん! カリフォルニア・ロード!」新妻君が叫んだ。

「夢から覚めろ、新妻!」キャプテンの心の叫びだった。道端では、農家のおばさんがナシを売っている。


『すえひろ』で生き返る

袖ケ浦町にさしかかる頃、西日が容赦無く二人を照りつけ始めた。午後3時、上り坂で風が止まり、二人のホイールも止まった。暑い・・。もう、一歩も進めなかった。たまらず『すえひろ』と言うファミリー・レストランに入ることにする。

富士走行の場合は山だったので、木陰で休めば十分涼しかったが、今度はそうは行かなかった。海辺の平地で、しかも八月だ。だがその分、自販機やエアコンの効いたレストランには恵まれた。当初、あらかじめ、マラソンのように給水所を自分達で設置しておく、と言う案が提出されたが、これはキャプテン高橋によって静かに脚下された。

『すえひろ』で新妻君はコーラを、高橋君はコーラとサラダバーを頼んだ。ここへ来て陽焼けがひどくなったため、トイレで対策を十分に施し、しばらく陽差しが弱まるのを待った。

店を出て少し滑ると、眺めの良い、長い下り坂が現れた。やがてその坂が終わる頃、『木更津市』の看板を見つけた。そこからしばらく田んぼの脇を滑った後、木更津駅を探して、人々に道を尋ねながら滑り続けた。駅についたら、観光案内で宿を紹介してもらおうと考えていたのである。


場違いな宿、グラン・パーク・ホテル

木更津駅に到着すると、観光案内所でビジネス・ホテルを紹介された。そこを目指して駅から歩き始める。

ホテルにたどり着き、フロントで名を告げて、申し込み用紙に書き込む。見出しが全部英語で書いて有ったため、キャプテンは緊張の余り、「ADDRESS」の所に名前を書いたり、「Mr.」ではなく「Miss.」に〇を付けてしまったり、それを直すためにに黒く塗り潰したり、汗の滴がポタッと落ちたり、グジュグジュになってしまった申し込み用紙を、汗だくになってフロントの若い女性に渡した。

するとその人は、長い時間その紙を見つめて瞳を左右に動かしていた。汚いので失格なのだろうかと思ったが、そのまま部屋のキーを渡された。解読に手間取っただけらしい。

キーは金属の物ではなく、*堅い紙で出来ていて、やたら穴ぼこが開いているヤツである。それは、ドア・キーだけでなく電気類のメインスイッチの役目もしていたため、それが解るまで明かりもつかずエアコンも効かず、大騒ぎをした。(*当時、カードキーはまだまだ珍しかった)

「息苦しい!」新妻君が叫んだ。

エアコンは効きはじめたが、どうも爽やかさがない。これが旅館なら、部屋に入るなりガラッと窓を開け、風を入れて、気持ち良く息をするのだが、ここではそうはいかない。なにしろ窓が開かないのだ。

風呂もユニットバス。浴衣、スリッパでの外出は禁止?、それじゃ、Tシャツにショート・パンツではどうだ。

「タキシードを着ろってことか?」キャプテンは新妻君に尋ねた。
「さあ・・? 僕はビーチサンダルです」
とにかく、二人は「あまく見るなよ」と思った。

食事はデパートのレストランで、生ビールと天重を注文した。食後に新妻君は牛乳を飲み、グレープフルーツをそれぞれ一つずつ、夏蜜柑のようにして食べた。

食事からの帰り道、不思議な現象が起きた。新妻君が知らない道をズンズン歩いて行ってしまうのだ。「何処へ行んだ?」と、キャプテンが尋ねると、彼はホテルに向かっていると言う。ホテルは全く反対方向なのに・・

「そうか!」その時キャプテンは愕然として立ち止まった。つまり、彼は方向音痴なのだ。スイカ割りのように街なかで体が一回転すると、もうおしまいなのだ。

ホテルに戻ってから、新妻君は買い忘れた物が有ると言って一人外出した。ドアを開け、出て行く彼の後ろ姿を見ながらキャプテンは、「元気でな」と別れの挨拶した。・・あの方向感覚では、もう会えないのかも知れない。・・しかし、しばらくして彼は無事戻って来たのだった。

夜、風呂場で洗濯をし、新妻君はそれを外の他人の家の塀に干したが、それは朝になっても乾いていなかった。それに引き換え、キャプテンがエアコンの効いた部屋で干した物は完全に乾いていた。新妻君の作戦は失敗に終わったのである。

朝、雨が降っていた

8月19日。曇り・・

木更津のグラン・パーク・ホテルを9時30分チェックアウト。近くの病院の駐車場で準備をすませ、滑り始めるとすぐに雨が降り出した。空は暗い雲に覆われており、雨天走行は避けられないと想われたが、16号に乗ってから雨はあがり、次第に陽が差し始めた。16号の歩道は広く滑らか、良い滑り出しだ。ほどなく127号に入った。

しかしじつは、127号は予定とは違う道だった。出発前、コースどりで話し合った結果、山道での靴ずれを恐れ、迂回して富津岬方面から攻めようと綿密に考えたのであった。ところが、綿密なわりに簡単に道を間違えていたのである。どうも用意周到な計画は二人には似合わないようだ。

しかしその日、本当に大変だったのは登り坂ではなく、車の往来であった。しばらく行って、ちょっとした山道に差しかかると、道幅が極端に減少し歩道が消えた。そして、大型トラックが肩のすぐ横を通り過ぎる状態が延々と続くと、早くも精神的にクタクタとなった。そこで脇道に入って、雑貨屋の前で休憩することにした。

「日本の道は車のためだけに作られているのか!」
何となくそんな憤懣が沸き上がった。
「ローラー・ブレードは滑っちゃいけないのか!」
立ち上がって叫ぼうとしたが、恥ずかしいのでやめた。


救いのオヤジさんが現る

気を取り直して先へ進む。途中信号待ちで、おばさんに笑顔で声をかけられる。
「若い人はいいねえ、冒険が出来て」

こんな風に気軽に人が声をかけてくるのは、ずいぶん田舎に入ってきた証拠だ。山道で苦しい走行だが、もう少し我慢して滑っていれば、何か新しい展開が有るに違いない。

127号の車の往来に疲れ果てたころ、ある地点で車通りの無い細い脇道が有るのに気づいた。これはいいと言うことで、その脇道をたどって行くと、畑の中で大きくカーブし再び127号にぶつかってしまう。ところが向こう側を見ると続きらしい道があるのだ。けっきょくその細い道をたどって、何度も横断を繰り返して行くうち、これは旧道が蛇行していた跡なのだと分かってきた。

路面温度40℃、汗が目に滲みて来た。

「*パピー牧場は過ぎましたよ」と、新妻君が言った。
(*注・マザー牧場の事。彼はパピー牧場と呼んでいる。理由不明)

幾つかの小さな峠を越えた頃、いよいよ限界が来た。足はガクガク、頭はもうろう、フッと気を許すと吐き気が込み上げてくる。何処か休む場所は・・、と探していると、レストランらしき白い建物が見えて来た。二人は合図しあってその前で止まった。ところが看板を見て、よけい胸がムカムカしてしまった。

『焼き肉。しゃぶしゃぶ。ステーキ』

違う、ここじゃない、重すぎる。しかも飲み物だけで出て来れるような雰囲気ではない。自販機も無い。かと言ってこれ以上進めるような状態でもない。あきらめて、道路脇のわずかな木陰でブレードを脱ぎ、休むことにした。

「気分が悪い」「吐きそうだ」そう言ったきり、二人はぐったりとしゃがみ込んでしまった。気温は木陰でも30℃以上。ほとんど風も無い。

ずいぶん長い時間休んでいたが、気力が回復して来ない。それでもそろそろ行くか、と力なく立ち上がっていると、突然麦ワラ帽子をかぶった、いかにもお百姓さん、と言ったいで立ちのメガネおじさんが現れたのだ。そして、こう言うのだった。

「あそこの水、使ってもいいんだよ。冷たいぞう。井戸水だからな。どんどん出して、いくらでも使っていいんだ」そして、駐車場に有るホースを指さした。

突然のその言葉に戸惑いながらも、二人は這うようにそこまで行って、グイッとホースをつかみ、蛇口をひねった。初めは生ぬるい水が出て、間もなく強烈に冷えた水に変わった。そして本当に冷たいその水を、くりかえし頭から浴び、好きなだけ飲んだ。

「たまらん!」新妻君が叫んだ。
「たまらん!」新妻君が叫んだ。
「たまらん!」新妻君が叫んだ。

・・そして二人は生き返ったのだった。

ひとしきり体を冷やすと、二人は準備を終え、山に向かって立ち小便をしてから、すでに畑仕事を始めていたおじさんにお礼を言って、出発することにした。

あの人はどうやらレストランのオーナーらしい。兼業農家なのだ。ともあれ、あきらめず、前進していった結果なら、何かの困難にぶつかった時でも、必ず救いの手が差し伸べられるのである。これは前回の富士走行でも何度も経験していることだが、不思議なくらい確実にそう言う事が起こる。

滑り初めて30分。すっかり力が蘇り、上り坂も難無く通り過ぎて、食欲もわいて来た。二人は右手に見えて来た民宿兼食堂で、蕎麦を食べる事にした。入り口に三輪ミゼットとかスバル360など、古い軽自動車が、ビニールシートを被って飾られているのがおかしかった。

駐車場の脇でブレードを脱いでいると、遠く眼下に海が見えた。ようやく海の見える所までたどり着いたのだ。富津市、かずさみなとの辺りか。


あじフライとあじの天ぷらは違う

蕎麦を食べていると、急激に食欲が増して来るのが解った。あれほど気分が悪かったのに、本当にあの井戸水が二人を復活させたようだ。そこで、カニサラダと『あじの天ぷら』を追加することにした。ところが、出て来たのは何と、『あじフライ』だったのだ。

「あっ、しまった、フライか」新妻君が舌打ちした。

うかつにも、『天ぷら』のつもりで『フライ』と注文してしまったようである。似て非なるもの『フライ』と『天ぷら』。二人の脳細胞はまだ完全に蘇ってはいなかったのだ。

さらにキャプテン高橋は、麦茶のおかわりをしようと、給水機のつもりで、隣りの生ビールのコックをひねってしまうと言う失態を演じた。湯飲みは泡だらけになってしまい、仕方ないのでグッと飲み干した。黙っていれば幾らでも飲めるなあ、と思ったが、そこまでにした。

出掛けに店の主人と言葉を交わし、ローラー・ブレードの説明をした。だが、ビールを飲んでしまった事は黙っていた。外に出ると相変わらずの暑さが続いていたが、体力は回復、気分は爽快。わけもなく、何か良い事が起こりそうな気がした。


音無き警鐘が聞こえる

店を出てしばらく下った。途中信号が有って、二人が通り過ぎると赤に変わった。当然、一台二台と車が止まり始める。ところが何台目かの車が、突然急ブレーキで止まったのだ。危うく追突するところだ。

「危ないな。気をつけろよー」と振り返って、キャプテンは呟いた。そして向き直って進もうとすると、また急ブレーキの音がして、今度は「ガチャン!」と嫌な音がした。

「うわっ、追突だ!」と、また振り返ってその現場を見た瞬間だった。さらに次の車も急ブレーキ空しく、激しく追突。黄色いウインカーランプが飛び散るのが見えた。ほんの数秒間の出来事だった。

二連続追突事故で、けっきょく3台の車が道の左脇に寄せられ、中から運転手達がやれやれと言う感じで降りて来た。二人は滑りながら何度も振り返って見ていたが、やがてキャプテン高橋が、

「何やってんだよまったく。要するに、あんな風に、わき見しながら運転している車が多いと言う事だ。気をつけて行こうぜ」と言うと、「僕たちじゃないですか?」と新妻君が言う。

つまり、二人に気を取られたから、わき見をしてしまったと言う意味だ。「待てよ、そうかも知れん・・」キャプテンはうろたえた。

確かにあんなに見通しの良い道で、二台も追突すると言うのも解せない話だし、急ブレーキはいずれも二人のすぐ横で踏まれている。さらに、ローラー・ブレード自体が珍しいばかりではなく、キャプテンは、自分が事故に巻き込まれるのを防ぐため、人目につくように、わざとハデな色のコスチュームを身につけていたのである。

「逃げましょう」新妻君が前を向いたまま言った。

「そ、そうだな。だが、これは、非常に残念な出来事ではあるが、これから先のブレード走行を、より安全なものとするための、我々に対する無言の警鐘として、率直に受け止め、いっそう気を引き締めて進む事にしよう」と、キャプテンはこの期に及んでなお、新妻君に訓辞をたれるのであった。

無言の警鐘にされてしまった三台の車が、その後どうなったかは誰も知らない。


午後の海辺をブレード・ランナーが行く

事故現場から離れて、小さな町を過ぎると、港に沿った道に出た。やがて少しだけ坂道を登り、そこからずっと海沿いの歩道を滑る事になった。午後の強い陽差しが容赦なく照りつけ、海面に光りが反射していた。そのすぐ横を、二人のブレード・ランナーが黙々と滑り続けて行く。

これがキャプテンが想い描いていたイメージだろうか。いや、まだ何か違う。海の色が少しくすんでいる。この辺りは東京湾のはずれ。彼が見ようとしているのは南房総の海の色である。

木更津までが約36km。全工程が162.2kmであるから、4日でたどり着くためには、今日出来れば計70kmは進んでおきたい。館山までは無理としても、富山町辺りまでならなんとか‥‥、そう思い、少し距離を稼ぐため、ここではキャプテンが先頭になってペースを取る事にした。

新妻君は、朝からヒューヒューと木枯らしのような音を立てて走っていた。昨夜ホイールをはずし、丁寧に掃除をしてオイルを差していたが、セッテイングに失敗したらしい。

一時間ほど滑って、いかにも田舎に有りがちなドライブインで休憩した。


ノコギリ山に思わぬ敵が待っていた

海辺のドライブインの「寿司」と言う文字にはそそられたが、ここでは飲み物だけ。空き缶を捨てに行くと、店のお爺さんが笑みを見せながら「面白そうなもん履いてるな」と話かけて来た。そのお爺さんに場所を聞くと、今いる所は芝崎の辺り、東京湾フェリーの港が1km程先にあると言う。地図を広げて見るとノコギリ山のすぐ近くだと言う事が解った。

ノコギリ山は、山頂がノコギリの歯のように凸凹しているので、そう呼ばれるようになった。仏像が彫ってあったりと、宗教色の強い山である。千葉に住んでいる子供なら必ず遠足に行く所だとも聞いている。また、かの椎名誠氏が沢野ひとし氏と共に、初めてロック・クライミングにトライし、5m程登ってやめた山であるとも伝えられている。

さて、それは良いとして、ノコギリ山を正面に見ながら進んで行く二人の前に、思わぬ難敵が待ち受けていた。それは、明鐘岬に差しかかろうとしていた時のことだった。目の前に、長く暗いトンネルが現れたのである。車の通りは激しく、道幅もひどく狭い。おまけに中でカーブしていて、見通しがきかないのである。とても生きて抜けられるような感じがしなかった。迷ったあげく、初めてブレードを脱いで迂回する事にした。

それにしても、このような道路の作り方は、ブレードはともかく、歩行者や自転車を全く無視しているように思える。車の走り方を見ていると、人も通る道なのだと言った警戒感はまるで感じられない。まるで、自動車専用道路だと思い込んでいるかのようである。


岬で『岬』と言う喫茶店に引き込まれた

ローラー・ブレードをかつぎ、迂回路をとぼとぼ歩いていると、「パンパン」と手をたたく音が聞こえた。振り向くと、海に向かって立てられた小屋の中で、50代ぐらいの男が窓から手招きしていた。

何だろう?と訝しく思っていると、その手招きに引き寄せられ、見る間に新妻君が近づいて行ってしまったのだ。いかん、と思ったがもう遅い。彼は魂を奪われてしまった者のように、よろよろと男の前に佇んでしまったのである。

「中に入れって」振り返った新妻君が言った。すでに彼は、男の術中にはまっていたのだ。

『出会いの店。音楽と珈琲の店。岬』
入り口にはそんな看板がおかれていた。どうやら古ぼけた喫茶室のようである。中に入るとビリー・ジョエルの歌が小さく流れていた。室内は色々な海や船の物で装飾されていて、ゲーリー・ムーアの似顔絵が有り、ビーパルのバックナンバーが揃えてあった。窓は開けっ放しで、絶えず海風が入り込んで来る。そのせいか、エアコンが無いのに中は涼しかった。

男は短い頭髪で、強い西日の差し込む、開け放された窓に向かって座っていた。カウンターには飲みかけのビール缶が一つ。それと、沖に向けられた望遠鏡が三脚に設えてあった。

「この店はね、水一杯で一日中いられるんだ」
男は前を向いたまま、低いゆっくりした口調で言った。間もなく、奥から40代ぐらいと思われる、髪の長い若作りな女性が水を運んで来た。キャプテンと新妻君は共にアイスコーヒーを頼んだ。

「海に、潜る・・」
時折り男は思い出したように口を開いて、西日を完全に顔面で受けながら低い声を発した。そして、カモメのモビールを指で弾いて揺らす。逆光の後頭部と横顔だけが、少し不気味に見えていた。

男は自分で勝手に話すくせに、こちらから質問するとほとんど答えようとしない。そして、あまり話しかけていると、しまいに「主人はあっち」と言って女性を指さした。

奥で女性が叫ぶ。「お母さん! お風呂の水止めて。28分に止めてって言ったでしょ! お母さん!」時計を見ると、針は40分を差していた。

男はその声に「うふふふ・・」と笑っていたが、急に席を立つと、「呼び込みしててもしょうがねえな」と言って店を出、表にあった白いセドリックに乗り込み、走り去って行った。そして、つまり「客」に呼び込まれてしまったらしいキャプテンと新妻君と、女主人の三人が残された。

「客だったんだ・・」新妻君が、うわ言のように言った。キャプテンは、水木しげるの漫画に出てくる、身代わりを見つけなければ自由になれない妖怪の話を思い出していた。

女主人はアイスコーヒーを運んでから、色々と尋ねて来た。二人は、ローラー・ブレードで鴨川を目指す旅の者であること、トンネルに道を阻まれてしまったこと、サイクリングロードを探していることなどを話した。彼女の話から、サイクリングロードは計画だけで、20年も前からそのままになっていることが解った。

「あたしなんかが、反対したわけよ」彼女は得意げに言った。そうだったのか、それでサイクリングロードが無かったのか。出来ていれば楽勝だったのに・・だが、「そうなんですかあ」と、キャプテンは笑顔で答えるのだった。

「鴨川まで行くんでしょ。だったら館山の方へ行っちゃダメ。鋸南町から左に折れて真っすぐ行けば、そのまま鴨川。絶対そっち行った方がいい。絶対!」女主人は勝手に力説した。さっきの客も変だったが、彼女も何んか変だ。しかし、まだいくつかトンネルが有ると言う情報は手に入った。

「ありがとうございました」二人は丁寧にお礼を言って外に出た。店の前の道を行くと、草深くなった所にティシュの絡まった人糞が有った。ますます不可解な所だ、キャプテンは思った。

ブレード隊が訪れてから22年後の2014年、この喫茶店を舞台した映画「ふしぎな岬の物語」が公開される。この店を訪れた森沢明夫氏の小説「虹の岬の喫茶店」が原作。

さらに苦難の道は続く

ブレードを脱いだまま、幾つかトンネルを迂回し、ノコギリ山の入り口を過ぎて、最後のトンネルを避けようと脇道を行くと、やがて道が広がって土木作業の材料置き場のような所に出た。何台かトラックが有り、その脇で作業員風の男が二人、話をしていた。

「この先、国道に抜けられますか?」
キャプテンが尋ねると、男たちは一瞬戸惑ったような顔をして、
「抜けられることは、抜けられるけど‥‥、大丈夫かなあ」と言う。
「けっきょく国道には出るんだけど、海辺に一回おりなきゃならないんだよ」
と、心配そうな顔をするのである。

「わかりました」と言って先を急ごうとすると、男のひとりの方が、さらにしつこく説明しようとする。海辺を行こうが行くまいが、国道に抜けられればそれでいいのである。しかし先へ行こうとする二人に、なおも彼は怪訝そうな顔をして、「気をつけてくれよ。ほとんど人の行かない所だから」と念を押した。

進んで行くと、男が念を押した理由が解った。なんと、道の先は崖っぷちになっていたのである。もろく崩れそうな乾いた急斜面。所々に草が生えているだけ。はるか眼下に砂浜が見える。

「何だこれは!」新妻君が大声で言った。
「それであんなに心配したのか」

しかし引き返しても迂回する道は他に無かった。二人は、ファイトー1発!と叫び、ザザザッと、リポビタンDの世界に突入して行くのだった。


民宿は旅のオアシスだ

なんとかズルズル下まで降りていくと、精根共に疲れ果てていた。
「今日はこれまでだ」新妻君が裸足で海に入って行った。
夕日が海に向かって落ちようとしている。時刻は5時を回ろうとしていた。

砂浜の先に民宿らしき建物が有ったので、そこを目指して二人は歩き始めた。民宿の入り口まで行って、そこにいたお爺さんに宿を探している旨を告げた。しかし、部屋は空いているが、食事が無いと言う。一度はあきらめかけたが、ご飯とみそ汁だけで良いからと言って、泊めて貰うことにした。

ところがである。食事時間になって行ってみると、確かに他の客よりは落ちはするが、信じられないくらいの豪華な刺し身料理が待っていたのだ。新妻君はお茶だけ、キャプテンはビール一本までと言う*ストイックな旅を続けていただけに、これはあまりにグッドであった。(*ストイック = 感情に動かされず、苦楽を意に介せぬこと。禁欲主義者)

◎ 民宿北見

夜、あの岬の『岬』の話になった。新妻君は、あの男は女主人に惚れていて、毎日口説こうとやって来るのだが、気の強い女主人に軽くあしらわれては引き返す、と言う筋書きを作っては空想にふけっていた。

キャプテンは、明日あの場所へ行ってみると、そこには、誰もいない崩れかかった廃屋が有るだけなのではないか、と思った。あの男の、強い逆光の後ろ姿を思い出すたびに、何故か、ついそんな気がしてしまうのであった。・・つづく


後編へ



  



コメント

このブログの人気の投稿

「筑波霞ヶ浦 りんりんロード」2022

  ★ 「りんりんロード 岩瀬 - 土浦 42.1km」 360度動画です。YouTubeへ移動して見てもらうと、上下左右の全方向へ画面を動かすことが出来ます。字幕をオンにして見てください。 2020年、世界は新型コロナの恐怖に見舞われました。ブレード隊も違わず走行中止に追い込まれ、そのまま、翌2021年も中止となりました。 その間、緊急事態宣言による「他県への移動禁止」で、茨城県の「筑波霞ヶ浦りんりんロード」も、サイクリング客激減となったことは確かでしょう。ところが、この激減の機会をうまく利用?したのか、2021年後半、「りんりんロード路面改修工事に着手」 の情報が飛び込んで来ました。 来るべき「コロナ終息」のチャンスに備えたのでしょうか?。ですが、それはサイクリング客だけでなく、我が「ブレード隊」にとっても、またと無いチャンスでした。なぜなら、改修工事が行われた直後の舗装路面は、非常に滑らかでスケートが滑りやすいからです。 高橋の経験のよれば、どんなにキレイで滑らかな路面でも、3年から4年の内に少しずつ荒れて来てザラついた地肌になってしまいます。「出来立ての滑らか路面」を完璧に堪能できるのは、完成からわずか1〜2年間だけなのです。そのため、我々はこの二度とない?チャンスを逃すわけには行きませんでした。 昭和62年に廃線となった旧筑波鉄道の廃線跡を利用して、2002年に完全開通した「りんりんロード」が、大震災を乗り越え、全面改修工事が行われたのは、20年後の2021年、と言うことは・・ もしこのペースで改修が行われるとしたら、次はさらに20年後の2041年と言うことになるでしょう。つまり高橋の年齢は80代半ば、他のメンバーも70代となっており、それを考えれば、事実上これが「快適路面の最後のチャンス」と言っても過言ではないのです。 GOBLINSブレード隊2022 「りんりんロード 岩瀬 - 土浦」 午前9時57分:JR水戸線「岩瀬 駅」出発 午後4時04分:「土浦駅」到着 走行距離:約41.2km

「茨城46億年後の一期一会 .7」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記7 4日目最終日> 4日目/8月3日(土)「割烹旅館かわたけからゴール犬吠埼まで」 ◆ 女将さん大いに喜ぶ! ◆ 4日目の朝も大変だった。朝食を終え、クソをしようとトイレへ行ったら、新妻君もいて連れグソとなった。それはいいのだが、トイレがみな塞がっていたのだ。そりゃあそうだ。サッカー軍団が一気にクソをし始めたのだから。 「オー、マイ、ガァッ!」想わず頭を抱える新妻君。 仕方無く、二階のトイレへ行ってみたのだが、ここもいっぱい。 「オー、マイ、ガァッ!」またもや頭を抱える新妻君。 中では同じようにあぶれた少年達が、青ざめた顔で右往左往している。どうしようもないので、歯を磨いたり荷物を整理したりして時間をつぶし、クソラッシュが終わるのを待つことにした。 そして、ようやく用を足し、三人全員の準備が終わって出発と言うことになったのだが、料金を払うためフロントへ行くと、出て来た女将さんが何やらニコニコして、やたら上機嫌なのである。しかも、 「今日は気分がいいから、ひとり7'000円のところ1'000円ずつおまけして6'000円、消費税もビール代もおまけしとくわ」と言い出したのだ。 と言うことは・・ 、三人分合計23'175円のところ、18'000円。つまり、5'175円も得をすると言うことになる。ふとっぱらー!。いやはや、有り難いことは有り難いが、いったいどうなってんだ? 初めは、スポーツ合宿の騒々しさのお詫びなのかと想った。しかしそれなら、「申し訳無いから」とでも言いそうなものである。それが「気分がいいから」と来た。これにはもっと違う意味が有るはずだ。話しをしながら、あれこれ考えた結果、キャプテンの心当たりはひとつだけだった。それはブレード隊が・・ 「心から感謝を込めて食事をいただいた」と言うことに違いない。 夕食も朝食も、とにかく食事だけは粗末にはしなかった。たぶんその話しを、調理係のオバサンから伝え聞いたのだろう。それを、サッカー軍団のひどい「食い散らかし」と比較してしまったものだから堪らない。「なんて気持ちの良い青年達なの。ナイスガイ!」などと感動してしまったのに違いない。だから「気分がいい」のである。 それしか考えられなかった。何しろ...

「渡良瀬川自転車道」2011

<渡良瀬川自転車道「小俣 - 藤岡 37.6km」2011> ◎ EveryTrai「小俣ー藤岡 ルートログ」 ★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。 震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルし、次回以降に期待しようと想いました。ですが、震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。 試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになりました。で、震災から2、3日後でしたか、これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると日本経済沈没の危機になりかねない、との直感が働くようになりました。 ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。 たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。 そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも普通の暮らしを」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。 それにしても東京都知事の、東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。 同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。 さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡...

「手賀沼周回ルートへ行った、が・・」2013

 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5...

「茨城46億年後の一期一会 .2」1996

1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来...

「霞ヶ浦自転車道」2009

< 霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009 > ★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。 当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。 が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。 ★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・ 決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。 けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。 隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。 そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。 そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲...

「茨城46億年後の一期一会 .5」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・5・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記5 3日目前半> 8月2日・金曜日(3日目)「民宿大竹から鹿島市・グリル鹿島まで」 ◆ 呪いの見送り ◆ 荷物を担ぎ、民宿大竹の駐車場まで出て行くと、女将さん、その娘、お祖母さんが次々に姿を現した。ブレードの物珍しさゆえの見送りと言うところである。 新妻君と森広君は、すみっこの車の陰でブレードを履き始めたが、キャプテンはギャラリーへのサービスもかねて、ど真ん中で準備することにした。そうしていると、ほどなく女の子が駆けよって来た。 「それで、すべってくの?」 その子はそう尋ねた。それに、ああ、そうだよと愛想良く笑い、 「ここからねえ、ずーっと遠くまですべってくんだよう」 と、キャプテンは子供用の声で答えたのだ。ところがである。 「ウソだね!」 予想に反してカワイくない返事がかえって来たではないか。 「ほんとだよ、ほんとほんと」ちょっとあせった。だが、 「ウソだねー!」と、女の子はなおも続ける。 「ほんとだってば」 「じゃあ、東京からすべってきたの?」 「そうじゃなくて、東京から電車で来て・・」 「ああっ!。ほらー、電車なんだってー!」 その子はキャプテンの言葉尻を取って、そーら見たことかとばかり、女将さんを振り返って騒ぎ出した。 「ちがうちがう、電車で遠くまで行って、そこから滑って来たんだよ。わかる?」 「ええー?」 そこでいったんはおとなしくなったが、声は半信半疑のままである。さらにその子の攻撃は続いた。 「雨がふるよ!」ふてくされたような言い方だった。「雨がふってくるよ!」 ・・ったく、どうなってんだ? 「そうかなあ?。大丈夫だと想うよ」 「ふるよ!。てんきよほう見てみな!」 これはもう、呪いに近いものが有る。でも、確かに雨が降りそうな空だった。気温も低く、温度計を見ると21℃を示していた。寒いくらいだ。 ブレード走行は、舗装道路が無ければ前進出来ないわけで、アウトドアと呼ぶにはあまりに半端なスポーツだったが、それでも自然相手であることには違いない。雨が降ったら、それを甘んじて受け入れるしかないのである。さて、どこまでもつか・・ 女の子はいつの間にかキャプテンから離れ、他の二人のところへ駆けよって行った。その後ろ姿を見ながら「世の中には、いろんな子がいるんだなあ」と想った。 年齢の...

「筑波霞ヶ浦 りんりんロード」2008

<りんりんロード「岩瀬 - 土浦 40.1km」2008> ブレード隊の隊長?高橋の50歳引退記念走行に集まったのは、かつての古い仲間たちだった。初のブレード隊当時は高橋32歳、仲間達はみな20歳そこそこで、若さの赴くままに滑り回った彼らだったが、それぞれに歳を取っていた。果たして昔のように40.1kmを滑り切れるのか。そして男たちの旅は、本当にここで終わってしまうのか? ブレード隊の高橋隊長が50歳を迎え、引退記念走行ということで、日本全国に散らばった?隊員たちを呼び集め、「最後のブレード走行」が行われました。集合はJR水戸線「岩瀬駅」。コースは土浦までの「りんりんロード40.1km」です。 ブレード隊が揃うのは1996年以来じつに12年ぶり、皆それぞれに歳を取っていました。1996年時の旅は「茨城・高萩 〜 千葉・犬吠埼」の約144km。当時は一般道を果敢に滑っていたのですが、高齢化と共に法律スレスレの無茶も出来なくなり、今回はおとなしく?サイクリングロードでの旅となりました。 ・・とは言いながら、最後のつもりが、滑り終えた達成感がかえって隊員たちの闘争心を刺激したらしく、早くも次回「高齢ブレード隊」の可能性で盛り上がったのでした。  JR水戸線「岩瀬駅」駅前。茨城のりんりんロードを滑ります スタート!。のどかでキレイな田園風景 菜の花ロード。5km経過、カメラポイントです いい天気!。快調に滑ってます! うねうね? 波打ちロードゾーン。遊び心だそうです 18k地点、暑いので日陰で休憩。昔より疲労度合いが大きい 午後の滑走。昼食を終え休養十分、再び滑り始めます 八重桜が植えられていた。疲労のためみな無口・・ 最後の10km。西日を受けてラストスパート! 霞ヶ浦近くでゴール!。あとは風呂とビールです! ニイツマ家で宿泊、朝食のあとの一服   

「茨城46億年後の一期一会 .6」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記6 3日目後半> 8月2日・金曜日(3日目)「グリル鹿島から波崎町・割烹旅館かわたけまで」 ◆ 今頃ソルボセインかよ・・ ◆ 出掛けに、鹿嶋市パンフレットの地図でスポーツ用品店を見つけていた新妻君が、「ソルボセインの中敷きを買う」と言い出した。なんと、彼はまだソルボセインを使っていなかったのである。 『ソルボセイン』とは、10m以上の高さから生玉子を落としても割れない、と言うほどの衝撃吸収材だが、同様の『αゲル』などと比べると「コシ」が強いので、靴底に入れてもフニャフニャした違和感が無く、自然な使い心地の代物なのである。 これをブレード・ブーツの底に敷くと、アスファルトからの振動を吸収して足を保護でき、疲労もかなり防げる。したがって、キャプテンは以前から、ブレード走行を始める者には『ソルボセイン』を使え、と言い続けて来た。 当然、新妻君もそれを耳にしていたはずで、とっくに使用しているものと想い込んでいたのだが、彼は「そんなことより、ブレードは滑ってなんぼ」とばかり、堅い中敷きのままで間に合わせていたのである。確かに、他人のアドバイスより自らの感覚を信じる、と言うやり方は正しいが、それは継続することにより養われるもので、一発屋には馴染まない。 グリル鹿島から町外れまで滑って行き、『スポーツ101』と言う、この辺りにしては大きめのスポーツ用品店を見つけた。新妻君はそこで『ソルボ中敷き』を購入、店の中で自分の足の大きさにカットして出て来た。 「なんだこれは!? 振動が無い!」 さっそくブレードの底に敷いて滑り始めたその直後の一声である。絶大なるソルボ効果に感動したのだろうか。もちろん一度痛めた足が治ることは無いが、このさき数時間の延命効果としては充分役に立つ。それにしても、最初から使っていれば・・ スポーツ101から離れてしばらくの間は、新妻君に応急処置が施されたことで、少し気を楽にして滑ることが出来た。すでに国道51号からは離れ、124号を進んでいた。 道沿いには、まばらだが、店やレストラン、町工場、中古車ディーラーなどが並んでいた。そこから幾つかの林をくぐり抜け、緩やかな坂道を下り、小ぎれいな民家の立ち並ぶ通りに差しかかった。 そこをさらに進んで、信号待ちで渋滞している交差点が見えて...

「湘南の海、エンドー苦難の道」1993

< 横須賀 - 茅ヶ崎・ブレード走行記 > 1993年。ゴブリンズ・ブレード隊、キャプテン高橋と遠藤忠隊員は、10月23日と24日の二日間に渡り、三浦半島の横須賀から茅ヶ崎まで、約75kmを無事完走したと発表。この完走によりキャプテン高橋の通算走行距離は359.4kmとなった。                    目次 うれしはずかし出発の時 三浦海岸! これを見に来た 遠藤殺しの坂が待っていた 史上最大のピンチである?! ついにブレード隊、初の野宿なのか・・? 二日目、最高の出発 湘南・超観光ルートを行く 日曜の午後の終わり ◇ うれしはずかし出発の時   ◇ 「だめだ、間に合わん!」 時計を見ると、7時55分。東急東横線の急行はたった今、 渋谷を出発したばかりだった。約束は横浜駅の改札に8時だが、この分では8時半ごろになってしまうだろう。昨晩、荷物の用意をしている内に夜が更けてしまい、キャプテンは今朝少し寝過ごした。しかし興奮のあまり眠れなくなった訳では無い。もう子供ではないのだ。 ドア際の窓から空を覗くと、雲は多めだが気持ちの良い秋晴れ。10月23日(土)、この週末の天気に問題は無い。ただ、なぜか寒さがとても心配だった。必要以上に気にしてしまったのは、第三次ブレード隊『富士五湖周回走行10.24』からちょうど1年、あの富士山麓の標高の高さと、降りしきる雨の記憶のせいに違いなかった。 予想した通り8時30分に横浜駅に着いた。改札を出ると、憮然とした遠藤隊員の姿が有った。「悪い、悪い。寝過ごした」仕方なくキャプテンは笑ってごまかすのだった。 日頃、野球の試合などでは、周囲から時間に厳格だと思い込まれているキャプテンだが、何を隠そう、中学・高校の6年間、常に遅刻回数・学年トップを誇って来たクセ者なのである。その頃の1年間の平均遅刻数は約70個。これは野球に例えれば『盗塁王』に匹敵するのはないかと一部ではささやかれているが、さて、どんなもんだろう・・ 二人はそこから京浜急行に乗り換え、横須賀中央駅へと向かった。気温24.3度、まずまずの走行日和だ。このくらいの陽射しが有れば、走っている内に体温の上昇でちょうど良くなって来るはずである。間近に迫った出発に備えて色々と考えは及ぶ。もう一人の隊員、新妻氏は、なんだかんだと急用が出来て、今日は来れなくなった。 横須賀...