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「茨城46億年後の一期一会 .4」1996

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<高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記4 2日目後半>

2日目/8月1日(木)「大洗海水浴場から大竹海岸・民宿大竹まで」

昼下がりの・・、大洗海岸

昼食を終えたあと、ちょっと長めの昼休みと言うことになった。

森広君は汗に濡れたTシャツを脱いで日なたに乾し、上半身を焼き始めた。とにかくこの男は、すぐ赤く腫れてしまうくせに、一気に焼かないと気がすまないと言うやっかいな奴なのだ。それに引き換え、足の痛みで予想以上に疲労している新妻君は、海の家で有料のシャワーを浴び、気持ちの張りを取り戻そうと懸命である。

その間キャプテンは、海の家のベンチに座って、ワセリンや日焼け止めを塗り直したり、サングラスの汚れを落としたりしていた。その横を、海から上がって来た何人かの男女が通り過ぎて行く。午後の強い陽差しにみな目を細め、シャワー室に入って行くのだった。

何度か、店番をしているオバサン達のカン高い笑い声が聞こえて、また静かになった。そのあとは、通り過ぎる車と風の音しか聴こえて来ない。

「オレにとっては・・、ここは、日本の裏側だ」慣れ親しんでいる天津小湊や九十九里の海に比べると、ここは本当に見知らぬ海だった。

「これが大洗海岸と言うものか・・」どうしようもない寂寥感が胸に迫った。やっぱり、ゴブリンズキャンプは、犬吠埼ではなく天津小湊にした方が良かっただろうか、と想う。

・・いや、だめだ。あの海には想い出が多すぎる。

やがて、シャワーを終えて来た新妻君が隣のベンチに座った。彼は自分の足に巻かれたテーピングを剥がそうとするが、すね毛が絡みついているのか、何度も「だあー!」と言う激しい悲鳴を上げていた。そのうちたまりかねて、アウトドア・ナイフで毛を切りながらテープを剥がす、と言う荒っぽい戦法に出た。

その時キャプテンは、彼の足首に大きな靴ズレの跡が有るのを見つけた。やはりツメだけではなかったようだ。それを見て、もうこの先、新妻君が復活することは無いだろうと想った。どんな治療を施しても、このまま延々と苦痛が続くだけであり、楽しいことはひとつも無い。ひょっとすると完走さえ危ないかも知れない。

「ワセリン塗っとけよ、ほら」と彼に差し出すと、意外なほど素直に受け取り、靴ズレの患部に塗り始めるのだった。ひとが薦めるものをことごとく拒絶するヘソ曲がりの新妻君も、今度ばかりは相当参っているらしい。キャプテンは、ワセリンの塗り方やテーピングの仕方など、自分の経験から得た靴ズレ対処法を教えた。

ここから先、新妻君が完走するには、彼の中にあるはずの痛みを越えるほどの何か、それにかかっている。

『夏の海辺で木を彫る新妻英利』

たとえば、そんな空想でも良い。その空想を実在の物語として完成させるためには、四日間のブレード走行と言う演目をやり遂げ、8月3日の土曜日に犬吠埼の海辺に立っていなければならない。彼がそんなシナリオを想い描けるかどうかだ。

もちろん彼だけではない。森広君には森広君なりのシナリオがあって、「到着ウイニング・ランにはこの曲を聴こう」と決めている曲が有るらしい。その一瞬に向かって、すでに彼のイメージも凝縮し始めているのだ。

そしてもちろんキャプテンには、キャプテンなりの、密かな・・


空が曇り始めた国道51号

ハンバーガー屋の店先から出発、すぐに下り坂が始まった。そのまま『大洗港』へと向かう。やがて、埋め立て地独特の、広くて大ざっぱな風景に変わるころ、左手にとてつもなく高い建物が見えて来た。

『大洗マリンタワー』
全面ミラー張りで、高さ60m。ほかに高い建物が無いので、非常に目立つ。

ブレード隊にとって有り難いのは、このような観光地では周辺の道路もきれいだと言うことだ。この先も『県立大洗海浜公園』そして『人工海岸・大洗ビーチ』と、観光地帯が続くはずである。そのころから、急に曇って気温が下がり始める。路面温度27℃。楽ではあるが、やはり晴れがいい。

大洗港から離れ始めると、『大貫海岸』を経て、やや高台の道路を滑り始めた。見下ろすと、すぐ下に幾つものテントが立ち並んでいた。『大洗サンビーチキャンプ場』である。そこを過ぎて間もなく、道はさらに高く登って、立体交差の合流地点が見えて来た。そこを越えて51号本線へと滑り込む。歩道が無く路側帯になっていて、海側は雑草に覆われた崖だ。

この道路は車にとっても快適らしく、相当なスピードで飛ばして行く。だが、路側帯が広いので危険は感じない。それが5kmほど続いただろうか、約1時間に渡って、ほぼ直線の信号の無い道路を滑って来た。こんな所では急いでも始まらない。じっくりと路面の感触を楽しむくらいがいい。

振り向くと、相変わらずすぐ後ろに森広君、やや間隔を空けて新妻君と言う状況だ。時おり立ち止まって、新妻君との距離を詰めることにする。

いつの間にか空は完全に曇ってしまい、辺りが薄暗くなって来た。昨日と同様、「ヘタをすると夕立が来るかも」と言う不安がつきまとうが、今日の目的地『太洋村』はまだまだ先だった。途中、幾つかのドラブインをやり過ごし、海辺に建つ大きな工場を見下ろしながら滑って行った。

 快適一直線ゾーンが終わり、また普通の国道が始まる。歩道が有ったのは良いが、人ひとりやっと通れる幅で、しかも穴あきのドブ板敷きである。

辺りは寂れた田舎の風景に変わっていた。農家と、無人の直売店。畑では、収穫されない作物が腐りかけ、土ぼこりが舞っていた。

足の痛い新妻君をなだめながら、何とかそこを切り抜けると、ようやくガードレール付きの路側帯が現れた。だが、さらに空は暗くなり、湿気のせいで気分の良くない汗がひっきりなしに滲み出して来る。

キャプテンは、ブレード隊を追い抜いて行ったバスの背中に、『鉾田駅行き』のプレートを見つけていた。『太洋村』までまだ10km以上有る、とすればあと2時間以上はかかるだろう。しかし現在午後3時、残された時間はあと約1時間である。ここからコースからは外れるが、近い鉾田駅へ行くと言う手も有る。・・
さて、どうするか。

「とにかく、一度ブレードを脱ぎたい」
との新妻君の言葉に、鉾田駅への分岐点で休憩することにした。


◆ 目的地変更 大竹海岸へ 

「太洋村は無理かもしれない。もし到達したとしても、観光地じゃ無さそうだから宿が有るかどうかわからない。それより駅周辺なら何か有りそうに想うが・・

キャプテンは分岐点に立っている案内用のポールを指差した。それによれば、鉾田駅近くに『◯
ホテル』と言う宿が有るらしい。しかし看板の感じからして、いかがわしいホテルのような気もする。

その時、地図を見ていた森広君が、
「大竹だ。大竹にしましょう!」
と言い出した。差し出した地図には海水浴場を表す旗印が付いていた。

「なるほど、これだったら民宿があるかも知れない。よし、行ってみるか」。こうして、『太洋村』はあきらめ、5kmほど手前の『大竹』を目指すことになった。

再び滑り始めて間もなく、有り難いことに広く滑らかな歩道に乗ることが出来た。これなら新妻君も楽だろう。

さらに進むと、だんだん風景が上品で潤いの有るものに変わって来た。ついさっきまでの寂れた景色とは異なり、木々の葉までもが艶っぽく見える。やがて林の中に、観光地に有りがちな、立派な和食のレストランを見つけた。・・これは良い兆候だ。

「行ける行ける」振り向きながらキャプテンは合図した。

道沿いには、大きな農家が増えて来て、防風林が並木のように立ち始めた。佇まいがとても豊かな印象である。さっきまでの町には悪いが、こっちの方が金持ちが多そうだ。

いい感じで滑っていると、道の先に大学生くらいの女性四人連れが歩いているのが見えた。彼女らは、ブレード隊を見つけて手を振ってくれたので、すれ違いざま軽く手を挙げたら、急に照れたように下を向いてしまった。

「なんだよ、どっちかにしてくれ」
とも想ったが、この辺が遠慮の無いオバサン達と違って可愛いところなのかも知れない。それにしても・・、彼女達は地元の人間と言うよりは、「民宿の夕食の時間まで散歩」と言う雰囲気だった。だとすれば、すでに民宿ゾーンは始まっているはずだ?!

「よーし! こうしちゃいられん、先に良い部屋を取られてたまるか」と鼻息も荒く滑って行くと、まずひとつ目の民宿の看板を見つけた。「キープ!」と指さして、さらに進む。

幾つかの農家の庭先を通り過ぎ、またひとつ民宿発見。ここは見た目は普通の農家だが、確かに泊まれそうなほどでかい家だ。庭で家の人が何か作業をしていた。

「ちょっと、そこの人、ここキープだからね!。いい?」と声をかけたい気分だった。そのまま何軒か民宿を勝手にキープして行くと、大竹海岸への道が見つかった。その曲がり角で止まり、新妻君が追いつくのを待つことにした。

道には、海水浴帰りらしい車が20台ほど信号待ちをしていた。待っている間に信号が青に変わり、いっせいに車が飛び出して行く。その隙間からノーヘルのバイクも涌き出し、斜めになって走り去るのである。

「あいつらノーヘルだけど、たいてい任意保険にはちゃんと入ってるんだよな」
「しかも親が入れてる」そんなことを話していた。

交差点の向かいに、その名も『大竹』と言う民宿が有ったが、海の近くにはもっといい宿が待っているのかも知れないと、新妻君が追いついたところで、まとまって海岸へ滑り降りて行くことになった。ところがなんと、これが物凄い下り坂で、ヒールブレーキかけっぱなしの状態となってしまったのである。

「こんなの、あのとき以来だ」
それはキャプテンが初めて敢行したブレード走行『東京-富士山』の山道のことである。あの道志渓谷走行では、このくらいの坂を80kmずっと、上ったり降りたりして滑り続けたのだ。

海岸が見えたところで急ブレーキをかけて止まる。すぐに森広、新妻両隊員も降りて来てストップ。いきなり『〇〇ホテル』と言う薄汚れた宿が建っていたが、なんか変な圧迫感を感じる。

新妻君は限界のようで、車のいなくなった駐車場へ入り込み、そこでダウン。残った二人は他の宿を探して海沿いを滑り始める。海からとても冷たい風が吹いて来て、火照ったブレード隊には気持ち良かったが、海水浴には寒そうだ。

民宿はひとつふたつ見かけるも、どれもパッとしない。そのまま引き返し、新妻君のところまで戻って来た。三人で、目の前の小さな『〇〇ホテル』にするかどうか迷ったが、様子を見に行った新妻君が盛んに悪口を言って後込みするので、けっきょく、もう一度あの急激な坂を戻って、国道沿いの民宿をあたることにした。しかし、もう滑って上る気力は無い。ブレードは脱いで一歩一歩、「よいしょ、よいしょ、」と言いながら上って行く。

国道近くまで上って来て、目についた宿は二つ。ひとつは防風林に囲まれた古い農家の民宿。もうひとつはさっきの交差点の『民宿大竹』と言う新しそうなヤツだ。どっちにしようかと振り返ると、新妻君が「あっち、あっち、」と指さしたのは、『民宿大竹』の方だった。森広君もエアコンの室外機を見てOKサインを出した。こいつはエアコン無しでは生きていけない奴なのだ。

それにしても、宿選びはとうとう新妻君に主導権が渡ってしまったようである。そう想いながらも、キャプテンには何処か任せている気楽さが有った。と言うのも、彼は宿選びにかなりの『ツキ』を持っているようなのだ。彼が選ぶ宿や店には、まずハズレが無いのである。

それにこの男、そう言う『直感力』にけっこう自信を持っているフシが有り、それどころか、そう言う直感力も含めた『超自然的』なことに関心有りそうな気配なのである。ただ別の言葉に置き換えているので、表には出て来ないが。

とにかく彼の直感を信じて、『民宿大竹』の玄関へと向かった。表に回って見ると、そこは元々ドライブインだったのを増築して民宿にしたのだとわかった。しかも国道に面したところには、別棟で『カラオケスナック』も建てられている。

「カラオケ」と言う看板に一瞬不安が過ったが、「だいじょうぶ。この旅にはツキが有る」と言うことで、戸を開け、「すみません」と声をかけて見た。すると、中で子供の世話をしていた若い美人が現れ、不思議そうな顔をして、「はい?」と答えた。奥には年を取った女性も見えたが、やっぱり女将さんはこっちなんだろう。

「三人なんですが、泊まれますか?」と尋ねると、
「一泊二食付きで、一人6800円ですけど、いいですか?」
と、見かけによらず、丸出しの茨城なまりで答えた。

うーむ、値段はまずまずだ。いいんじゃないか? と言うことで、部屋へ案内してもらうことにした。部屋は二階のベランダ付き。窓を開けるとなかなか見晴しが良く、風も気持ちいい。すぐ目の前が駐車場で、ご主人らしき人が洗車しているのが見えた。

腰を降ろし風に吹かれていると、今ではタバコを吸わないキャプテンも、急にタバコが欲しくなって来た。新妻君に一本もらって吸い始める。

「うまい!」
なんとも言えない心地よさだった。正にこれがタバコの吸い時と言うものだ。毎日吸い続けている人は、本当にうまいタバコは吸えないと想う。


◆ ブレード隊、恐ろしいまでのツキなのか?◆

夕食は意外なほど早く、5時頃お呼びがかかった。普通は早くても6時過ぎだから、これは異例の早さである。三人はいつものペースで行動していたので、新妻君だけが風呂の途中になってしまった。

後でわかったことだが、夜のスナック客が来る前に、民宿客の世話を済ませてしまおう、と言うことだったらしい。

そのスナックが食堂代わりで、そこに支度が出来ていると言う。二人はしばらく新妻君が風呂から出るのを待っていたのだが、子供までが呼びに来たので申しわけなくなり、キャプテンと森広君で先にいただくことにした。

階段を降り一度外に出て、国道に面したスナックの扉を開ける。中は薄暗く、いかにも酒場と言った雰囲気である。ソファーに囲まれたテーブルが幾席か有り、その間を観葉植物が彩りを添えていた。だが、田舎に有りがちな、いかにも安っぽいと言う印象ではなかった。

ブレード隊の食事は、たくさんの洋酒が並んだカウンター前のテーブルに用意されていた。ソファーに座り、何げなく目の前の料理を見た二人は、息を飲んだ。

「豪華である!」
刺し身はドーンと盛合わせで、薬味もおろしたてのワサビ、ショウガ、ニンニク、と三種類。肉野菜炒めもたっぷり山盛りで、その横のフライ盛合わせに至っては、海老フライ、アジフライ、鳥の空揚げ、などなど。どれも出来立てのホカホカ、いい匂いがしている!

その他にも皿一杯の漬物、サラダ、みそ汁は当たり前、食後にメロンとスイカが付いて、そしてそのどれもが、量が尋常ではないのだ。

夜にはカラオケスナックの美人ママに変身するらしい女将さんにビールのお酌をされながら、二人はかなり迷っていた。そしてついに、「どう考えてもこれは、先に食ってしまうわけにはいかない」と決断、急遽森広君が入浴中の新妻君を呼びに行くことになったのである。

「くっそう、早く来い新妻!。早くパンツはいて降りて来い!」
その後、三人が一気に天国まで上り詰めたことは言うまでもない。


◆ 木彫りターイム! その後、森広隊員異常興奮!◆

豪華な食事を終え部屋に戻って来た三人は、覚めやらぬ興奮を口々に発表しあうのだった。特に森広君は『肉野菜炒め』がいたく気に入ったようで、「すごい、あの野菜炒めはすごい・・」とうわ言のようにつぶやきながら洗濯物を干している。

「この先もう、何をやってもうまく行く。この旅は初めから用意されていたんだ!」と新妻。
さらにキャプテンが、
「約束の地、神の降り立つ場所へ・・」

・・などなど、興奮のあまり、みんな少し頭が変になっていたようである。

確かに、決して手の込んだ料理と言うわけではないのだが、丁寧に味が整えられていて、一口一口染み込んで行くような美味しさが有った。これも毎晩スナックのつまみ作りで鍛えられているためであろうか。質、量共に、感激の食事であった。

風呂、食事、とクリアーして来た三人に残された課題は、木彫りのオブジェを造る仕事であった。

「木彫りターイム!」
とそれぞれ声を上げ、オブジェを造り始める。

キャプテンはほぼ原型を削り終え、粘土の張り付けにかかっていた。森広君も大まかなブレードの形は出来ており、それを飾り付ける土台が問題、と言う段階だ。ただ一人、一生懸命、何を削っているのか解らないのが新妻君である。ただそのシルエットから、どうやら動物らしいと言うことだけは解って来た。

「わかった、熊だ!」北海道出身だから、故郷を想い出しているのか?
「サケくわえさせろ、サケ!」と、森広君が叫ぶが、
「違いますよ」と彼は彫り続ける。
「わかった、犬吠埼だから、犬だ! そうだろ?」

今度は何も言わない。いや、少し間が有って、
「・・違いますよ」
あやしい!? この男、図星を付かれると、どんどん答えを変えてしまう、そんな奴だからな。

『木彫りターイム!』が一段落し、布団を敷いて横になっていると、もう眠気が襲って来た。8時、そろそろ眠ろうかと想っていたら、森広君が急に騒ぎ始めた。

「コーチが始まる! コーチを見るんだ!」と言うのである。『コーチ』とは、浅野温子・玉置浩二主演の、弱小草野球チームが出てくるドラマのことだ。

キャプテンはそれまでほとんど見たことは無く、「こう言うときはなあ、ビデオに予約しておいて、帰ってからゆっくり見るもんだよ」と諭し、眠りにかかろうとしたのだが、彼の様子が尋常ではない。キャプテンがいくら言っても、

「コーチ!。コーチ!。コーチ!・・」
と繰り返し、部屋の中をうろうろと、意味も無く歩き回っているのである。

けっきょく、「君はリアルタイムで見なければ気が済まないタチなんだなあ」と言うことで、ドラマが終了する11時まで、付き合うことになったのだ。

その回の筋書きはこうである。
・・仕事に失敗して倒産寸前の九十九里缶詰工場に飛ばされ、工場長となった「浅野温子」。彼女は工場の弱小野球部に、チームとグランドの存続を賭けて網元チームと試合をさせる。負けたらグランドは売り飛ばされてしまうのだ。だが、試合はあえなく惨敗。

ところが何を想ったか、彼女は彼らにボールを投げつけ、もう一度グランドを賭けてリターンマッチをしろ、と叫ぶ・・

「ちょっと、クサいドラマじゃないですか?」新妻君が言った。
「うーむ。でもBGMの作り方は、映画っぽくて印象的だ」とキャプテン。
BGM作曲家は、古畑任三郎の音楽でも有名な「本間勇輔氏」)

ところがである。これは後に解ることなのだが、何げなく見ていたそのドラマの画面には、偶然にも、ブレード隊がいま向いつつある、最終目的地の風景が映し出されていたのである。

つまり、ゴブリンズの1996年度の夏季キャンプ地、犬吠埼・長崎町周辺は、ドラマ『コーチ』のロケ現場だったのだ。しかも予約我々がした宿は、コーチ撮影スタッフの休憩所として使われた宿で、画面の中にも登場している。

ブレード隊の三人は、その事実も知らぬまま、やがて目にするであろう風景を、到着前に、まるで予知映像のごとく見せられていたのである。

これは偶然なのだろうか。いや、偶然のように見えて、この世で起こることは、全て予定されていた必然だと言う説も聞いたことがある。だからこそ『一期一会』とか、『袖擦り会うも他生の縁』と言ったような言葉が残り、伝えられているのだと・・

「初めから用意されていた旅?」
「約束の地・神の降り立つ場所へ?」

・・いやいや、考え過ぎだ。やはり単なる偶然なのだろう。だいたい、そのロケ現場に到着しても、宿泊先の女将さんに教えてもらわなければ、何も知らないまま帰ってしまったはずなのだし・・

ともかく三人、その夜は何も真実を知らぬまま、かすかに響くカラオケの歌声を聞きながら、静かに眠りに落ちてしまったのである。


・・旅は続く。





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1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来...

「霞ヶ浦自転車道」2009

< 霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009 > ★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。 当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。 が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。 ★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・ 決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。 けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。 隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。 そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。 そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲...

「茨城46億年後の一期一会 .5」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・5・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記5 3日目前半> 8月2日・金曜日(3日目)「民宿大竹から鹿島市・グリル鹿島まで」 ◆ 呪いの見送り ◆ 荷物を担ぎ、民宿大竹の駐車場まで出て行くと、女将さん、その娘、お祖母さんが次々に姿を現した。ブレードの物珍しさゆえの見送りと言うところである。 新妻君と森広君は、すみっこの車の陰でブレードを履き始めたが、キャプテンはギャラリーへのサービスもかねて、ど真ん中で準備することにした。そうしていると、ほどなく女の子が駆けよって来た。 「それで、すべってくの?」 その子はそう尋ねた。それに、ああ、そうだよと愛想良く笑い、 「ここからねえ、ずーっと遠くまですべってくんだよう」 と、キャプテンは子供用の声で答えたのだ。ところがである。 「ウソだね!」 予想に反してカワイくない返事がかえって来たではないか。 「ほんとだよ、ほんとほんと」ちょっとあせった。だが、 「ウソだねー!」と、女の子はなおも続ける。 「ほんとだってば」 「じゃあ、東京からすべってきたの?」 「そうじゃなくて、東京から電車で来て・・」 「ああっ!。ほらー、電車なんだってー!」 その子はキャプテンの言葉尻を取って、そーら見たことかとばかり、女将さんを振り返って騒ぎ出した。 「ちがうちがう、電車で遠くまで行って、そこから滑って来たんだよ。わかる?」 「ええー?」 そこでいったんはおとなしくなったが、声は半信半疑のままである。さらにその子の攻撃は続いた。 「雨がふるよ!」ふてくされたような言い方だった。「雨がふってくるよ!」 ・・ったく、どうなってんだ? 「そうかなあ?。大丈夫だと想うよ」 「ふるよ!。てんきよほう見てみな!」 これはもう、呪いに近いものが有る。でも、確かに雨が降りそうな空だった。気温も低く、温度計を見ると21℃を示していた。寒いくらいだ。 ブレード走行は、舗装道路が無ければ前進出来ないわけで、アウトドアと呼ぶにはあまりに半端なスポーツだったが、それでも自然相手であることには違いない。雨が降ったら、それを甘んじて受け入れるしかないのである。さて、どこまでもつか・・ 女の子はいつの間にかキャプテンから離れ、他の二人のところへ駆けよって行った。その後ろ姿を見ながら「世の中には、いろんな子がいるんだなあ」と想った。 年齢の...

「筑波霞ヶ浦 りんりんロード」2008

<りんりんロード「岩瀬 - 土浦 40.1km」2008> ブレード隊の隊長?高橋の50歳引退記念走行に集まったのは、かつての古い仲間たちだった。初のブレード隊当時は高橋32歳、仲間達はみな20歳そこそこで、若さの赴くままに滑り回った彼らだったが、それぞれに歳を取っていた。果たして昔のように40.1kmを滑り切れるのか。そして男たちの旅は、本当にここで終わってしまうのか? ブレード隊の高橋隊長が50歳を迎え、引退記念走行ということで、日本全国に散らばった?隊員たちを呼び集め、「最後のブレード走行」が行われました。集合はJR水戸線「岩瀬駅」。コースは土浦までの「りんりんロード40.1km」です。 ブレード隊が揃うのは1996年以来じつに12年ぶり、皆それぞれに歳を取っていました。1996年時の旅は「茨城・高萩 〜 千葉・犬吠埼」の約144km。当時は一般道を果敢に滑っていたのですが、高齢化と共に法律スレスレの無茶も出来なくなり、今回はおとなしく?サイクリングロードでの旅となりました。 ・・とは言いながら、最後のつもりが、滑り終えた達成感がかえって隊員たちの闘争心を刺激したらしく、早くも次回「高齢ブレード隊」の可能性で盛り上がったのでした。  JR水戸線「岩瀬駅」駅前。茨城のりんりんロードを滑ります スタート!。のどかでキレイな田園風景 菜の花ロード。5km経過、カメラポイントです いい天気!。快調に滑ってます! うねうね? 波打ちロードゾーン。遊び心だそうです 18k地点、暑いので日陰で休憩。昔より疲労度合いが大きい 午後の滑走。昼食を終え休養十分、再び滑り始めます 八重桜が植えられていた。疲労のためみな無口・・ 最後の10km。西日を受けてラストスパート! 霞ヶ浦近くでゴール!。あとは風呂とビールです! ニイツマ家で宿泊、朝食のあとの一服   

「茨城46億年後の一期一会 .6」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記6 3日目後半> 8月2日・金曜日(3日目)「グリル鹿島から波崎町・割烹旅館かわたけまで」 ◆ 今頃ソルボセインかよ・・ ◆ 出掛けに、鹿嶋市パンフレットの地図でスポーツ用品店を見つけていた新妻君が、「ソルボセインの中敷きを買う」と言い出した。なんと、彼はまだソルボセインを使っていなかったのである。 『ソルボセイン』とは、10m以上の高さから生玉子を落としても割れない、と言うほどの衝撃吸収材だが、同様の『αゲル』などと比べると「コシ」が強いので、靴底に入れてもフニャフニャした違和感が無く、自然な使い心地の代物なのである。 これをブレード・ブーツの底に敷くと、アスファルトからの振動を吸収して足を保護でき、疲労もかなり防げる。したがって、キャプテンは以前から、ブレード走行を始める者には『ソルボセイン』を使え、と言い続けて来た。 当然、新妻君もそれを耳にしていたはずで、とっくに使用しているものと想い込んでいたのだが、彼は「そんなことより、ブレードは滑ってなんぼ」とばかり、堅い中敷きのままで間に合わせていたのである。確かに、他人のアドバイスより自らの感覚を信じる、と言うやり方は正しいが、それは継続することにより養われるもので、一発屋には馴染まない。 グリル鹿島から町外れまで滑って行き、『スポーツ101』と言う、この辺りにしては大きめのスポーツ用品店を見つけた。新妻君はそこで『ソルボ中敷き』を購入、店の中で自分の足の大きさにカットして出て来た。 「なんだこれは!? 振動が無い!」 さっそくブレードの底に敷いて滑り始めたその直後の一声である。絶大なるソルボ効果に感動したのだろうか。もちろん一度痛めた足が治ることは無いが、このさき数時間の延命効果としては充分役に立つ。それにしても、最初から使っていれば・・ スポーツ101から離れてしばらくの間は、新妻君に応急処置が施されたことで、少し気を楽にして滑ることが出来た。すでに国道51号からは離れ、124号を進んでいた。 道沿いには、まばらだが、店やレストラン、町工場、中古車ディーラーなどが並んでいた。そこから幾つかの林をくぐり抜け、緩やかな坂道を下り、小ぎれいな民家の立ち並ぶ通りに差しかかった。 そこをさらに進んで、信号待ちで渋滞している交差点が見えて...

「湘南の海、エンドー苦難の道」1993

< 横須賀 - 茅ヶ崎・ブレード走行記 > 1993年。ゴブリンズ・ブレード隊、キャプテン高橋と遠藤忠隊員は、10月23日と24日の二日間に渡り、三浦半島の横須賀から茅ヶ崎まで、約75kmを無事完走したと発表。この完走によりキャプテン高橋の通算走行距離は359.4kmとなった。                    目次 うれしはずかし出発の時 三浦海岸! これを見に来た 遠藤殺しの坂が待っていた 史上最大のピンチである?! ついにブレード隊、初の野宿なのか・・? 二日目、最高の出発 湘南・超観光ルートを行く 日曜の午後の終わり ◇ うれしはずかし出発の時   ◇ 「だめだ、間に合わん!」 時計を見ると、7時55分。東急東横線の急行はたった今、 渋谷を出発したばかりだった。約束は横浜駅の改札に8時だが、この分では8時半ごろになってしまうだろう。昨晩、荷物の用意をしている内に夜が更けてしまい、キャプテンは今朝少し寝過ごした。しかし興奮のあまり眠れなくなった訳では無い。もう子供ではないのだ。 ドア際の窓から空を覗くと、雲は多めだが気持ちの良い秋晴れ。10月23日(土)、この週末の天気に問題は無い。ただ、なぜか寒さがとても心配だった。必要以上に気にしてしまったのは、第三次ブレード隊『富士五湖周回走行10.24』からちょうど1年、あの富士山麓の標高の高さと、降りしきる雨の記憶のせいに違いなかった。 予想した通り8時30分に横浜駅に着いた。改札を出ると、憮然とした遠藤隊員の姿が有った。「悪い、悪い。寝過ごした」仕方なくキャプテンは笑ってごまかすのだった。 日頃、野球の試合などでは、周囲から時間に厳格だと思い込まれているキャプテンだが、何を隠そう、中学・高校の6年間、常に遅刻回数・学年トップを誇って来たクセ者なのである。その頃の1年間の平均遅刻数は約70個。これは野球に例えれば『盗塁王』に匹敵するのはないかと一部ではささやかれているが、さて、どんなもんだろう・・ 二人はそこから京浜急行に乗り換え、横須賀中央駅へと向かった。気温24.3度、まずまずの走行日和だ。このくらいの陽射しが有れば、走っている内に体温の上昇でちょうど良くなって来るはずである。間近に迫った出発に備えて色々と考えは及ぶ。もう一人の隊員、新妻氏は、なんだかんだと急用が出来て、今日は来れなくなった。 横須賀...