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「道志渓谷に涼しい風が吹いていた」1992

<道志渓谷に涼しい風が吹いていた>

★1992年6月3日、ローラー・ブレードで東京八王子駅を出発したキャプテン高橋は、4日17時ついに山中湖及び富士山に到着。ずっと構想を練って来たローラーブレードによる東京-富士間80キロ走破を実現した。

八王子 - 富士吉田・ブレード走行記

*目 次*


我慢の準備期間

一昨年ニューヨーク、ピーター三好氏からローラー・ブレード、ゼトラ303を輸入して貰ったが、もっぱらビールの買い出しに用いる以外、使い道に困っていた高橋君は、昨年夏、「そうだ、これで富士山へ行こう!」と思い立った。

そこで、秋から冬にかけて用具を揃えながらテスト走行を重ね、四月、運び屋ピーター三好に、交換タイヤ608とベアリングを日本に持ち込んでもらい、渋谷ロフトでブレーキ・パッドを手に入れたところで、日が長くなる季節を待った。

見送りは見知らぬおばさんだけ

その年の健康診断では、心電図異状無し、肝機能もなんとか数値安定。しばらく悩んでいた腰痛も治った。

ブレード走行計画のことを何も知らない保健所の医者に、
「少し激しい運動をしてもいいでしょうか?」と尋ねると、
「死なない程度にね」と言う冗談っぽい答え。

これで医者のOKが出たも同然?、と勝手に解釈し、予定より一カ月遅れ、6月3日梅雨入り前の最後の晴天を狙って、午前11時頃八王子駅から一人、見送りも無く、おもむろに出発した。

駅前で出走用のコスチュームに着替えている時、おばさんが1人、眉間にしわを寄せて上から下までなめるように高橋君を見ていたが、やがて立ち去って行った。

キャプテン高橋、34歳。

体調悪し津久井湖で休憩

八王子から橋本まで16号を下る。歩道を通るが、トラックやオートバイの通りが激しく、神経を使う。16号から右に折れ相模湖・津久井湖方面へ向かう。

気温29℃晴天。1時間ぐらい滑ったところで、高橋君は持病の激しい頭痛を起こした。久しぶりに強い日差しを浴び、発汗を繰り返したからかも知れない。少し休まなければと思ったが、まだ街中で場所が無い。津久井湖まで我慢する事にしたが、次第に悪寒が走り、めまいと吐き気をもよおして来た。熱中症だろうか。急な坂を登って、どうにか貧血寸前で津久井湖にたどり着く。

木陰のベンチで、1リットルのスポーツ・ドリンクを飲み干して横になると、気分は少し良くなった。落ち着いて来たところでパンを食べ、鎮痛剤を飲んだ。

運命を変えた少女のひと声

そこで30分程休んでまた滑り始めたものの、すっかり弱気になっていて、「やめようかな」と思い始めていた。

次第に登り下りが激しくなって来る。気温30.1℃。路面温度不明。汗は止まらない。津久井湖を過ぎ、このまま、413号に入らず真っすぐ相模湖まで行って、そこで泊まるか帰るか考える事にした。1時間でこの調子では、富士山なんてとてもとても・・、と思ったのだ。

だから、信号待ちでおばさんに、
「おもしろそうだねえ。それで滑って、何処まで行くつもりなの?」
と聞かれた時も、高橋君は迷わず、
「ちょっと相模湖まで」と答えていた。
時刻は12時ちょうどぐらい。一旦あきらめると急に足が重く感じた。

ローラー・ブレードで難しいのは、登りよりも下りである。勢いがついて止まらなくなるらだ。そのために、かかとについているブレーキパッドを地面に擦りつけて、減速しながら進む。そんな操作をして、30分程下って、413号とのT字路が見えた時、疲労で足が痺れて力が入らなくなり、かなりハデに転倒した。

本当に限界だなと、転んだままじっとして休んでいると、
「だいじょうぶー?」と少し離れた所から女の声がした。

見ると、ガソリンスタンドの少女が心配そうに高橋君を見ていた。ハッとして、「大丈夫だ!」と、手を振って起き上がる。そうしたら今度は、
「何処までいくのー?」と聞く。
するとどうだ、
「富士山まで!」
なんと、高橋君は笑顔でそう答えているじゃないか。あきらめた筈ではなかったのだろうか? いやそれどころか、言うが早いか、もう413号に足を踏み入れようとしている。

そして「すごーい。頑張ってねー」と言う少女の声に右手を上げ、あれよあれよと言う間に滑り始めてしまったのだ。なんと彼は、二度と会う事も無い女の為に、大見栄を張ってしまったのである。

心優しき人々

幸か不幸か、キャプテン高橋は富士山への道を滑り始める事になった。どちらにしろ、あの娘が声をかけて来なければ、この旅はすでに終わっていたはずなのだ。いやはや運命とは・・、こんなモノなのか。

それにしても、少し田舎に入って来たせいか、色んな人が気軽に声をかけて来るようになった。それにくらべて、都心でのテスト走行の際の不愉快なこと。特に若い女の不機嫌そうに視線をそらす態度はなんなのだろう。とにかくエラい違いである。

たとえば板金工場の前で、煙草をふかしていた工員が高橋君を見つけ、急いで仲間を呼び集めて一列に並んだかと思うと、「おー」と手を振って見送ってくれたり・・

バス停で立っている老人が、
「なあんだ? ローラー・スケートに良く似ているなあ」
と笑うのを見て、それに、
「これも、ローラー・スケートなんです」と答えたり・・
バイクに乗った少年が、リズミカルにクラクションを鳴らし、手を挙げて追い越して行く様など、そんな一瞬に少しずつ勇気を取り戻してくのだった。

山岳走行の厳しさを思い知る

413号に入ってから、山道はますます険しくなって来た。車や自転車には何でもない道でも、ローラー・ブレードには辛く苦しい道程だ。登りで体力を消耗し、下りでは止まらない恐怖に神経を擦り減らす。また山道はスリップを防ぐため、わざと粗い舗装している部分が有るので、そんな所では足を取られて失速し、転倒することもしばしば。

そうこうしている内に、両足の内側に激しい刺すような痛みが走り始めた。どうも靴ずれが起きたようだ。出発時、うっかりテーピングを忘れたため、いつかこうなるとは思っていたが、予想をはるかに越える痛みだった。何処かで治療しなければならない。

道志川渓谷の清涼感に救われる

小さな峠を越えて、道は次第に平坦なものに変わって来た。地図を見ると『青野原』の辺り。一直線で長い滑らかな路面。快晴、気温29.5度。13時30分。両側に広大な畑と山々が強い日差しに照らされている。足の痛みは相変わらずだが、今日一番気持ちの良い滑りだ。

道の脇の畑に井戸らしき蛇口を見つけ、そこで休憩する事にした。痛みを堪えブーツから足を抜くと、白いソックスが血で真っ赤に染まっていた。

「ここまでやるかな・・」

そう思いながら血を洗った。ついでに手足や顔にも冷水を浴びせると、随分いい気分になった。そして涼しい風に吹かれながら、視線を道のずっと先にやると、また山道になっているのが解った。

足の治療を済ませ、また滑り始める。

この道は古くから道志道と呼ばれ、横浜市の水源となる道志川渓谷と幾度も交差しながら伸びている。その渓谷に架かる橋を渡る時、その深い緑と、青く透きとおる水、そして谷から吹き上げる風が体を冷やし、気持ちを穏やかにした。

直販のおばさんに救われる

2時間半、山道を滑って、いよいよ体力も足の痛みも限界に来た。16時。まだ時間には余裕が有るが、一泊する予定の道志村・竹之本はまだ20kmも先だった。この辺りに泊まる場所があれば、思うが、宿らしきものは見当たらなかった。

それでも、川沿いに釣り客用の旅館が有ると言う看板を見つけて、ブレードを脱ぎ1kmほど降りて行ったが、平日はやっていないと言う事で断られた。そしてまた1km谷から登る。

宿だけでなく水も枯渇して来た。水筒には一滴も無く、再び脱水状態の悪寒を感じ始めている。「さっき降りたとき川の水でも飲めば良かった」なんて思うくらい喉が渇いていたが、仕方がない。そのまま少し歩く。

500mほど行くと農家の直販のノボリが見えた。スイカか夏ミカンなら沢山買い込んで、今日は何処かで野宿でもしようと思った。しかし、近づいて見ると果物ではなく山菜だった。

仕方がないので、それならばと、おばさんに何処かに宿は無いかと尋ねてみた。すると親戚がやってる『鶴屋旅館』と言うのが有るらしい。

「バスで行きゃあ、10分なんだがなあ・・」
と言った直後、いきなりびっくりしたような声で、
「あっ!、ほれ、バスだ! 手あげてえ、乗せてもらえ!」
と指さした。

振り向くと、ちょうどバスが峠を登って来るところだった。

キャプテン高橋は言われた通りバスを止めて乗り込み、走りだしてから、お礼を言おうと窓を開けると、「ひがしのー!」と言うおばさんの声が聞こえた。どうやら降りる停留所の名前らしい。

そのまま数分走ると、三つ目がその『東野』と言う停留所だった。「しまった、降りてからの道順を聞かなかった」と不安になったが、降りると、すぐ目の前が『鶴屋旅館』だった。


ビールに救われる!

この辺りは、青根と言う神奈川と山梨との県境。旅館の女将さんに、道志川に面した一番景色の良い部屋をとってもらい、荷物を降ろした。出発から約6時間が経過していた。

その晩、高橋君は恐らくこの世で最高の風呂とビールと食事を味わったはずだ。女将さんは無口な人だったが、料理の味は絶品だった。食事が終わると、体中が筋肉痛に襲われている上に、ビールの心地よい〃クラクラ〃で動けなくなった。

夜、山から降りて来る心地よい風を窓から入れて、その山の上に細い三日月が現れたのを見つける。

そして道志川渓谷の水の音が、確か、眠りにつくまでは聞こえていた。


君原走法に救われる

起床6時。ストレッチをして、ブレードのタイヤ・ローテーションを行う。特に前輪の摩耗が激しい。

朝食後、雑貨屋でガムテープを買い、それを足にグルグル巻いて靴ずれの患部を保護する。そして飲めるだけのスポーツドリンクを飲み、30分程横になって胃を落ち着かせた。昨日脱水症状に悩まされただけに、水分の補給だけは気をつけよう。

10時出発。いきなり足が激しく痛む。滑り始めて直ぐに登り坂で力尽きた。30分も経っていない。でも、このまま我慢して滑っていれば、脳内麻薬が分泌されて痛みも薄れて来るに違いない・・。そう信じて、あの電柱まで、あの樹まで、と言う君原走法(マラソン銀メダル選手の走法)で小刻みに進んで行った。するとしばらくして、思った通り楽になって来た。

『月夜野』と言うところを過ぎ、下り坂を気持ち良く滑って道志村に入った。この辺りは、キャンプ場や釣り場などが続く静かで美しい所だ。道は、道志川と幾度も交差し、その度に渓谷美を楽しめる。そうして、次第にペースをつかんだせいか、昨日よりは確実に楽に走行する事が出来た。

気温30℃。晴れ。山中湖まであと30km。


オッパイを見た?

道沿いには古そうな民宿が立ち並んでいた。

深い渓谷だった道志川が、道のすぐ脇を流れるせせらぎになった。降りれそうな河原を見つけて休憩する事にする。手足を川の冷たい水で冷やし、落ち着いたところでパンをかじる。透明な水の流れを見ているだけで不思議と暑さを忘れる。

14時まで、15分休んで、また出発。時折り沿道の人達との会話を楽しみながら7~8km程進んだ。その内疲れから急に甘い物が欲しくなり、雑貨屋を見つけてキャラメルでも買おうと思った。

ブレードのまま店の中に入り、「すみません」と言ったが誰も出て来ない。何度声をかけても姿を見せないので、おかしい、いないのかな。と、何げなく店の奥の茶の間をのぞき込んで、驚いてしまった。なんと女の子が上半身裸で、慌ててTシャツを頭からスッポリかぶっているところだった。

「まずい!」と思い、しかしつい目が釘付けになって・・、いや、それから、気づかれないように店の入り口までスルスルっと戻ったのだ。

まもなく娘さんは、何事も無かったかのように出て来た。そして応対しながら、足元を見て、「えー?、それで旅を続けてるんですか」と驚いて見せた。キャプテン高橋も何食わぬ表情で会話を交わし、キャラメルを一つ買って表に出た。

・・暑かったし、客も来ないので、涼んででもいたのだろうか。それとも着替えの途中だったのか。何だか良く解らないが、とにかくこんな場所で、若い女性の胸を見ることになるとは思ってもみなかった。

高橋君の頭の中で、ラッキーの鐘が鳴り響いていた。


沿道の声援に力を得る

店を出てからしばらくは、出来たばかりの広く滑らかな下り坂が続き気持ち良く滑って行った。この快感は、恐らくスキーにでも匹敵するのだろうか、あるいはそれ以上か‥‥‥

「こりゃ良い!」高橋君は思わず両手を広げ、風を受けた。

しかしその快走が終わる頃、この旅の最大の難所、「標高1200m・山伏峠」が迫っていたのだ。もはや下り坂は皆無となり、延々と登りだけが続く。

その間も色々な人から声を掛けられた。庭先で水まきをする人。工事現場で交通整理をする人。特に畑帰りらしい老夫婦と嫁さんの三人は、話しかけて離そうとしない。

東京から来たと告げると、
「たまげたな、歩いた方が楽だろうに」と言って笑った。そして、
「平野(山中湖)まで行くのか? だったら大変だ。この先はもう登りしか無えぞ。峠、越えなきゃなんねえぞ。気をつけろ」
と言い、また笑った。

後ろ髪を引かれながら、その家族に別れを告げ、また滑り出す。

ふと、今まで会った人々が、再び会うことはまず無いのだと気づき、何か胸が熱くなるような感慨が迫ってきた。


恐怖の山伏峠

『善之木』を過ぎる頃には、人家も人通りも無くなっていた。時折り、車が物凄い音を立てて通り過ぎて行く。

15時。山中湖まであと約16キロ。一休みして残りのパンを食べ、水を飲み、キャラメルを3、4粒一度にかんで、じっとして体力の回復を待った。

西日が山を少しオレンジ色にしているのを見た。何だか悲しいような気持ちに襲われる。

5km程進むと、『山伏峠・山中湖まであと10km』の看板が見えた。その先は考えていたよりもキツイ登り坂が待ち構えていた。覚悟を決めて峠に足を踏み入れる。路面が粗い。勾配は目測では解らないが、車がセカンド・ギアで登って行くような所だと思えばいい。

少しして、サイクリングの男が、前を向いたままガッツポーズの格好で追い越して行った。その後ろ姿を追うと、彼も苦しそうにひとこぎひとこぎ登って行く。

ただ幸いな事に、峠に入る頃から空が曇り、涼しい風が吹き始めていた。気温は21度まで急激に下がっている。標高のせいも有るのだろう。


■白バイ、意外な声援に救われる

足の痛みと体力の消耗と、急な登り坂が一度に襲って来た。10m登っては休むと言う状態になった。立ち止まると、汗の匂いに誘われるのか、蚊やハチが顔の周囲を飛び回る。

高橋君は少年の頃、虫採りの最中誤ってアシナガバチの巣を叩き落とし、ハチの大群に襲われ熱を出すと言う苦い経験が有り、ハチは苦手だった。そのため落ち着いて休むことも出来ず、何度も追い立てられるように先へ進む。

通り過ぎる車に乗っている人々が、眺めながら、あきれて笑っているような気がした。もうこの辺りはバスも通らない。日も陰って薄暗い山の中で独り、何km進んだのか、あと何km進めばいいのか、皆目解らない。

「こんなところで、野宿はないよな・・」
無性に心細くなってきた。

ふと腰掛けているガードレールの横を見ると、『死亡事故現場』と書かれた看板が立ち、花が置いてある。急にぞーっとして30mぐらい一気に登った。

息が切れてヨロヨロしていると、後ろから、
「そこのローラースケート!」
と言う拡声器の大きな声が聞こえた。振り返ると、白バイが2台、ニヤリと近づいて来る。
「なんだよ。ここまで来て何か言われるのかよ」と、ムッとしたが、彼らはただ、「ガンバレ!」とだけ言い残して走り去って行ったのだ。

驚いた。てっきり捕まるかと思ったのに・・。それにしても、人里離れた所での、白バイ警官の思いがけない声援は効いた。気力が蘇って来た。


峠を越えると妙な男が待っていた

最後の力をふり絞り、山伏トンネルまでたどり着いた。このトンネルを抜ければ、あとは長い下り坂だ。そのまま一気に山中湖まで行ける。 ブレーキ・パッドを交換し、急な下りを減速しながら乗り切る。途中、折り返して来た先ほどの白バイと軽く挨拶を交わして、山中湖に到着。

湖畔に出て景色を眺めた。着いてからまた雲が切れ、霞がかったシルエットでは有ったが、確かに富士が見えた。湖面がキラキラと日差しを受けて輝く。

まだ明日、忍野、富士吉田までの走行が残ってはいるが、ひとまず、ここが今回の目的地だ。

最高の気分だった。誰も知らない所で、何か一つの事をやり遂げる。ふと、もしかして感動のあまり泣いてしまうのかなと思ったが、高橋君は運動した後、異常なハイに陥ってしまう体質なので、あとからあとから笑いが込み上げて来るのだった。

ひとしきりの感動も終り、さて宿を探そうと信号待ちをしていると、前から来た一台のジープが道の脇に止まった。そして運転していた若い男が盛んに話しかけて来る。

「東京から来た」と答えると、驚いたような顔をして、
「ちょっと、お話しうかがってもよろしいですか?」と言う。

「物好きな奴だな。ひょっとしてブレードが欲しいのかな?」と思いながらOKすると、彼は〃ノートと一眼レフカメラ〃を持って降りて来るではないか。

「すみません。私、山梨日日新聞の記者なんですが、よろしくお願いします」
と言った。高橋君は、ええ?ちょっと出来過ぎなんじゃないの?と思ったが、道端に座り込んで、これまでのてん末を話した。

彼は慣れた口調で次々に質問を浴びせて来たが、
「年齢は、34です」
と言ったときだけ目を丸くして、
「ええっ? けっこうイってるんですね・・。学生かと思った」
としばし凍りつくのだった。

「これからの目標は? アメリカ大陸横断とか?」
「いや、そこまでは・・。何しろ今回が初めてなんですよ。だいたい、ここまで来れるかどうかも解らなかったし」

この答えにはやや不満のようだった。何とか〃どでかい〃ことを言わせたいらしかったが、ウソを言うわけにはいかない。

インタビューが終わると、滑っている写真が欲しいと言うので、行ったり来たりして、フィルム一本分撮らせて、そこで別れた。

時刻は17時ぐらい。


富士山麓に雷鳴とどろく

それから高橋君は、テニスコートつきの『高嶺荘』と言う宿を見つけ、そこに泊まる事にした。聞けば俳優の千葉真一氏ごひいきの宿と言う事で、その日もジャパン・アクション・クラブのメンバーが数人、合宿を行っていた。その人たちがローラー・ブレードを珍しがり、食事中ひとしきり話しに花が咲いて、夜が更けて行った。

翌朝、ガタガタの体を引きずりながら、朝日を浴びて山中湖サイクリングロードを半周。そこから138号を抜けて忍野をまわり、やっとの思いで富士吉田駅に到達した。

全工程約80km。その内バスに乗った5km程を除く、75kmを全てローラー・ブレードによって走破した。

 二泊三日。
 延べ走行時間、17時間。
 体重、出発時67kg。到着時62kg。

富士吉田駅から電車に乗り、走りだすと、やがて雷が鳴って激しい雨が降り始めた。高橋君は座席に着くと、そのまま深い眠りに落ちてしまったが、その大粒の雨は、列車が大月に到着してからもずっと、やむことはなかった・・

走破を終えたキャプテン高橋は、次のように感想を語っている。
「こんなにも苛酷で危険なブレード走行は、私で最後にしてもらいたい」
しかしそのあとに、次は鴨川まで夏の海沿いの道を行くつもりだ。とつぶやくように語った。

キャプテン高橋の、果てしない夢と無茶はまだ続くらしい。


<道志渓谷に涼しい風が吹いていた/おわり>



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<高崎伊勢崎自転車道「井野 - 伊勢崎 51.9km」2010> ◎ 井野ー伊勢崎 GPS走行ログ ★2010年5月2日、インラインスケートによる、群馬ブレード走行を行いました。今回は「高崎伊勢崎自転車道」と言うサイクリングロードを、高橋、土屋、遠藤の三名で滑りました。集合駅は両毛線「井野駅」。そこから数百メートル離れたスタート地点から出発、ゴールは自転車道沿いにある、伊勢崎市の「まちかどステーション」と言うバスの待合室。 当初、走行距離は「42km」の予定でしたが、途中コースを間違えて引き返したり、工事中の迂回で大回りしたりなど、少しずつ距離が増えて行き、けっきょくは「51.9km(iPhone・GPS測量による)」と言う、大変な距離を滑ることになってしまいました。「体力の限界」という言葉が有りますが、本気でそれを味わいました。 それがどんな道のりだったのか。ほんの一部ですが、デジカメで撮影したムービーなどを参照してみてください。デジカメのレンズにホコリが入ってしまい、多少見づらい部分が有ります。(修理の見積もりを出してもらったら2万円近くかかるとのことで、そのままになってます) ただし体力の限界のため?、残り約8kmと言うことろで、撮影やブログアップなど、何もする気力が無くなってしまい、残念ながら終盤部分のムービーなどが有りません。ご了承願います。 パンラマ写真・土屋氏提供 走行中に送った写メール 出発です。伊野駅から川沿いの自転車道へ 出発から10kmほど。大きな公園内で休憩 広々として野球場が見えて来ました 道を間違えましたが、ついでに昼食 緑の中の気持ちいい道 だいぶ疲労して来ました。景色も単調? 野球見物は何故か楽しい。休憩ついでに 51.9km 終了!。疲れました・・。スーパー銭湯までタクシーを呼びます

「飯倉 - いいおかみなと公園」2016

◎ ブレード隊走行ログ ★2016年5月5日。1年ぶりに、恒例の「ブレード隊」インラインスケート走行が行われました。今回はブレード隊の原点である「海岸線ルート」を選択。とは言え、公道はなるべく避けて通りたいので、主に農道や、海岸線のサイクリングロード(太平洋岸自転車道)を滑りました。 ただし、隊長:高橋は、年齢による体力の衰えと、足首周りの故障のため、インラインスケートではなく、より消耗の少ないキックスケーター(左写真・もちろん大人用)を使用しています。そのため、カメラは手持ちではなく、スケーターに直接取り付けまして、そのせいで、動画には振動とカラカラと言う車輪のノイズがかなり入っております。 さて、1992年に、初のインラインスケートによる長距離走行「八王子 - 富士吉田・約80km」を行ったときは、国道413号の公道にもかかわらず、すれ違う沿道の人々に歓迎され、励まされ、ついには白バイの警察官にまで、わざわざ拡声器で「ガンバレ!」との応援をいただき、力を得て進んだものですが・・ 包容力に満ちたあの時代から二十数年・・ ネット社会になってからと言うもの、正義の名の下に、自分たちの意にそぐわない者は、立ち上がることも出来ないほど寄ってたかって潰される、と言う現状を見るにつけ、世代が入れ替わり、「包容力」の意味も通じなくなったかのような世の中で、今になって、あえて一般道を滑るのはどんなもんだろう?、と言う不安も確かに有りました。 ですが、すれ違う農家の方々はみな好意的で、みな会釈してくれたし、笑顔で「楽しそう!」とか「頑張って!」とも声をかけていただきました。‥‥まことにありがたい話しです。農道は公道ではなく私道扱いなので、言わば人んちの庭を滑っているようなもの。なのでもちろん、こちらから頭を下げて通らせていただきましたよ。 いちおう、法律的な解釈を以下に記しておきます。 道路交通法第76条(禁止行為) 「交通のひんぱんな道路において、 球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること」 動画を見てもらえれば分かりますが、「交通のひんぱんな道路」と言う条件には当てはまらず、よって禁止行為には当たらないことになります。むしろ動画は、映像にアクセントをつけるため、数十分のストックの中から、わざと車の写ってる部分をピックアップしたくらいです。条件を考慮せず

「渡良瀬川自転車道」2011

<渡良瀬川自転車道「小俣 - 藤岡 37.6km」2011> ◎ EveryTrai「小俣ー藤岡 ルートログ」 ★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。 震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルし、次回以降に期待しようと想いました。ですが、震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。 試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになりました。で、震災から2、3日後でしたか、これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると日本経済沈没の危機になりかねない、との直感が働くようになりました。 ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。 たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。 そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも普通の暮らしを」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。 それにしても東京都知事の、東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。 同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。 さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡

「手賀沼周回ルートへ行った、が・・」2013

 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5kmは

GOBLINS・ブレード隊とは?

★ 「ブレード隊とは?」 草野球チーム・ゴブリンズを母体とし、そのメンバーの中から、インラインスケートによる長距離走行をするために集まったチーム。 1990年、元ゴブリンズのメンバーで当時NY在住のM氏から、セントラルパークで流行し始めていた「ローラーブレード・ゼトラ303」を、ゴブリンズのキャプテン高橋が、帰国土産として手渡されたことから始まる前代未聞の旅のお話しである。  記念すべき最初の走行は、高橋による単独走行。ローラーブレードを手に入れてから2年後の1992年6月、「道志道」と呼ばれたアップダウンの険しい*国道413を、八王子から富士山(山中湖)を目指して、単独インラインスケートによる約80kmを、二日かけて走破することに成功した。 (*国道413:2020東京オリンピック自転車ロードレースのコースとなった道) 2006年までに走破した全ルート 同じ1992年の8月、その話しに興味を持ったゴブリンズ新人で10歳下の新妻が初参加。インラインスケートによって、千葉駅から天津小湊の民宿までの162.2kmを、真夏の炎天下、四日間かけて二人で走破。これが後々、伝説として語り継がれる?「ブレード隊」誕生の瞬間であった。 「ブレード隊命名」・・当時の日本では、まだ「インラインスケート」との呼び名は無く、一列に並んだローラースケートは全て「ローラーブレード」と呼ばれていた。そこで我々も複数メンバーによる走行を略して「ブレード隊」と呼ぶことにした。 しかし、まだ動画はおろか携帯電話さえ無い時代。それゆえ、当初は高橋による手記「走行記」と言う形で発表。その後、初の記録動画としてまとめられるまでには、さらに20年以上の歳月が過ぎるのを待たねばならなかった。(動画はYouTube:一部は限定公開) 動画以前、走行記の目次 ◇ ブレード走行記(文章形式)目次

「茨城46億年後の一期一会 .2」1996

1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来