スキップしてメイン コンテンツに移動

「霞ヶ浦自転車道」2009


霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009
★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。

当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。

が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。


★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・

決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。

けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。

隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。

そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。

そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲間だった」と話すと驚いていましたが、そんな会話で始まった朝でした。

その後、近くのバッティングセンターへ行ったのですが、そのボールの速さに度肝を抜かれました。その腹ごなしの後は、新妻家のすぐ近くにあるラーメン屋で昼食をとりました。有名な大勝軒からのれん分けした店だそうで、なかなか繁盛していました。

もちろん全員、メインである「つけ麺」をいただきました。で、肝心の味の方は? ・・人にはそれぞれ好みが有ると言うことがよく分かりました。

・・と言うことで、いよいよ今年で最後なのか?とのご質問ですが、関係者の間では「ブレード隊2010プレイオフ」が有るのではないか、との憶測も流れています。


潮来より出発

最初の休憩ポイントへ

2km以上の直線

5月の日差し、暑いので日陰休憩

霞ヶ浦周回の遊覧ヘリコプター

強い向かい風

向こう岸に土浦市のビル群

ダート出現のため強制終了






   

コメント

このブログの人気の投稿

「渡良瀬川自転車道」2011

<渡良瀬川自転車道「小俣 - 藤岡 37.6km」2011> ◎ EveryTrai「小俣ー藤岡 ルートログ」 ★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。 震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルし、次回以降に期待しようと想いました。ですが、震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。 試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになりました。で、震災から2、3日後でしたか、これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると日本経済沈没の危機になりかねない、との直感が働くようになりました。 ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。 たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。 そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも普通の暮らしを」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。 それにしても東京都知事の、東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。 同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。 さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡...

「茨城46億年後の一期一会 .1」1996

1・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記1 1日目前半> 1996年8月。ゴブリンズの夏季キャンプが、千葉県犬吠埼の長崎町で行われることになった。そこでゴブリンズ・ブレード隊の高橋文昭、新妻英利、森広康二の三名は、その四日前に茨城県高萩市を出発。犬吠埼・長崎町までの135kmを、4日間かけてインラインスケートのみで南下し、ゴブリンズのメンバーと落ち合う、と言う旅を計画した。 ◆ 主な登場人物  ◆  ブレード隊・キャプテン高橋  草野球チーム・ゴブリンズのキャプテン。34歳で初めての長距離ブレード走行を敢行。今回、通算走行距離1000km突破を目指す。  ブレード隊・新妻英利 隊員  伝説の第一次ブレード隊のメンバー。1995年カナダ・ロッキー山脈にて初の海外ブレード走行を試みるが、足のツメを剥がし100km地点でリタイア。  ブレード隊・森広康二 隊員  1996年からブレード隊に参加の新人。経験は浅いが、抜群の登坂能力とスピードを持つ。ブレード・アクセサリーに凝っている。  塚本じいさん  高萩の外装の汚いビジネスホテルのオーナー(現在廃業)。  水木海岸の少年  岸で駐車場の番をしていた愛想の無い高校生。  旅館須賀屋の女将  飛び込み客に面倒味が良い、 日立港近くの旅館の女主人。  旗振りの男  海岸で旗を振って客引きをしていた無数の人間の中のひとり。  ターザンの娘  あぶない格好でブレード隊に手を振っていたと言う少女。  民宿大竹の女将  茨城弁丸出しの美人ママ。  その女将の子供  出発時に見送りしてくれた疑り深い性格の女の子。  グリル鹿島の娘  バカッ丁寧な言葉使いの少女。  鹿島ガンプ  奇妙な質問を発し、自転車で延々とブレード隊を追いかけて来た不思議な人物。  旅館かわたけの女将  無理を承知で泊めてくれた太っ腹人情女将。  ◯◯ 高校サッカー部  『かわたけ』に泊まった礼儀知らずの合宿軍団。    1日目/1996年7月31日(水)「高萩海岸から日立駅前そば屋まで」 ◆ 不吉なる序章 ◆ この旅の始まり、不吉な出来事が起こった。ブレード隊三人が乗り込んだ列車が、ある時点から、「ガラガラ、ガツン!」「カン、カラン、ゴンッ!」と言う、石が車体にぶつかるような激しい音をさせ始めたのである。 初め...

「手賀沼周回ルートへ行った、が・・」2013

 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5...

「筑波霞ヶ浦 りんりんロード」2008

<りんりんロード「岩瀬 - 土浦 40.1km」2008> ブレード隊の隊長?高橋の50歳引退記念走行に集まったのは、かつての古い仲間たちだった。初のブレード隊当時は高橋32歳、仲間達はみな20歳そこそこで、若さの赴くままに滑り回った彼らだったが、それぞれに歳を取っていた。果たして昔のように40.1kmを滑り切れるのか。そして男たちの旅は、本当にここで終わってしまうのか? ブレード隊の高橋隊長が50歳を迎え、引退記念走行ということで、日本全国に散らばった?隊員たちを呼び集め、「最後のブレード走行」が行われました。集合はJR水戸線「岩瀬駅」。コースは土浦までの「りんりんロード40.1km」です。 ブレード隊が揃うのは1996年以来じつに12年ぶり、皆それぞれに歳を取っていました。1996年時の旅は「茨城・高萩 〜 千葉・犬吠埼」の約144km。当時は一般道を果敢に滑っていたのですが、高齢化と共に法律スレスレの無茶も出来なくなり、今回はおとなしく?サイクリングロードでの旅となりました。 ・・とは言いながら、最後のつもりが、滑り終えた達成感がかえって隊員たちの闘争心を刺激したらしく、早くも次回「高齢ブレード隊」の可能性で盛り上がったのでした。  JR水戸線「岩瀬駅」駅前。茨城のりんりんロードを滑ります スタート!。のどかでキレイな田園風景 菜の花ロード。5km経過、カメラポイントです いい天気!。快調に滑ってます! うねうね? 波打ちロードゾーン。遊び心だそうです 18k地点、暑いので日陰で休憩。昔より疲労度合いが大きい 午後の滑走。昼食を終え休養十分、再び滑り始めます 八重桜が植えられていた。疲労のためみな無口・・ 最後の10km。西日を受けてラストスパート! 霞ヶ浦近くでゴール!。あとは風呂とビールです! ニイツマ家で宿泊、朝食のあとの一服   

「道志渓谷に涼しい風が吹いていた」1992

<道志渓谷に涼しい風が吹いていた> ★1992年6月3日、ローラー・ブレードで東京八王子駅を出発したキャプテン高橋は、4日17時ついに山中湖及び富士山に到着。ずっと構想を練って来たローラーブレードによる東京-富士間80キロ走破を実現した。 八王子 - 富士吉田・ブレード走行記 *目 次* 我慢の準備期間 見送りは見知らぬおばさんだけ 体調悪し津久井湖で休憩 運命を変えた少女のひと声 心優しき人々 山岳走行の厳しさを思い知る 道志川渓谷の清涼感に救われる 直販のおばさんに救われる ビールに救われる! 君原走法に救われる オッパイを見た? 沿道の声援に力を得る 恐怖の山伏峠 白バイ、意外な声援に救われる 峠を越えると妙な男が待っていた 富士山麓に雷鳴とどろく ■ 我慢の準備期間 ■ 一昨年ニューヨーク、ピーター三好氏からローラー・ブレード、ゼトラ303を輸入して貰ったが、もっぱらビールの買い出しに用いる以外、使い道に困っていた高橋君は、昨年夏、「そうだ、これで富士山へ行こう!」と思い立った。 そこで、秋から冬にかけて用具を揃えながらテスト走行を重ね、四月、運び屋ピーター三好に、交換タイヤ608とベアリングを日本に持ち込んでもらい、渋谷ロフトでブレーキ・パッドを手に入れたところで、日が長くなる季節を待った。 ■ 見送りは見知らぬおばさんだけ ■ その年の健康診断では、心電図異状無し、肝機能もなんとか数値安定。しばらく悩んでいた腰痛も治った。 ブレード走行計画のことを何も知らない保健所の医者に、 「少し激しい運動をしてもいいでしょうか?」と尋ねると、 「死なない程度にね」と言う冗談っぽい答え。 これで医者のOKが出たも同然?、と勝手に解釈し、予定より一カ月遅れ、6月3日梅雨入り前の最後の晴天を狙って、午前11時頃八王子駅から一人、見送りも無く、おもむろに出発した。 駅前で出走用のコスチュームに着替えている時、おばさんが1人、眉間にしわを寄せて上から下までなめるように高橋君を見ていたが、やがて立ち去って行った。 キャプテン高橋、34歳。 ■ 体調悪し津久井湖で休憩 ■ 八王子から橋本まで16号を下る。歩道を通るが、トラックやオートバイの通りが激しく、神経を使う。16号から右に折れ相模湖・津久井湖方面へ向かう。 気温29℃晴天。1時間ぐらい滑ったところで、高橋君は持病の激しい頭...

ブレード走行観光案内?

夏休み特集!と言うことで?、個人的に思い入れのある「ブレード走行」で訪れた宿、観光スポットなどを検索してみました。始めてから15年が過ぎまして、不景気とかいろいろありましたが、あの時泊まった宿が健在でいるのは嬉しいものです。 ◎ ブレード走行記「 道志渓谷に涼しい風が吹いていた 」 これがインラインスケートによる初めての長距離走行でした。メインで滑った413号は道志川渓谷へ続く道ですが、中央高速が渋滞する時には富士山・山中湖までの裏道にもなると言うことです。ここを良く知っている友人・室田氏には「すごい山道なのに、よく滑る気になったもんだ」と呆れられました。確かにその通りでした。 ◎「 スワロウデイル アンティークス 」 (参考までに・室田氏のアンティークショップ) ◎ 津久井湖 最初の休憩ポイント。ここで通りすがりのオバさんに声をかけられましたが、あまりの疲労でやめようかと思った場所です。 ◎ 道志川渓谷観光スポット ブレード走行をした時期は6月でした。渓谷の眼下にキャンプ場などいろいろ見えましたが、何処も立ち寄りませんでした。 ◎ 鶴屋旅館 初めて飛び込みで泊まった旅館。「何しに来たのか?」と問われたらどう答えようかと不安でしたが、何も聞かれませんでした。食事が美味しかったです。魚と肉と両方ついて量もたくさんありました。普段は主に釣り人が利用する宿のようです。 ◎ 高嶺荘 到着地、山中湖畔の民宿です。食事が山菜中心で少し物足りない感じがしましたが、飛び込みだったので仕込みが間に合わなかったのかも知れません。ここは千葉真一さんごひいきの宿と言うことで、その日もジャパンアクションクラブのメンバーが合宿をしていました。 ◎ 走行記「南房総に夏の終わりの夢を見た」」 ◎ 走行記「幻のBOSO100マイル」 上はゴブリンズの新妻君と出かけた走行記で、下は同じコースを単独走行した時のものです。が、1992〜1994年のこの頃から急激に「夏の気温」が上昇したような記憶があります。35℃越えのいわゆる酷暑ですね。そのため途中で熱中症を起こしリタイアしました。そのたどり着けなかった100マイル(160キロ)地点を「幻の」と言うタイトルで表現してみました。 ◎ グランパークホテル 新妻君との旅での最初の宿です。木更津駅前の観光案内で紹介されたビジネスホテルでした。しかしアウトドア旅行...

「南房総に夏の終わりの夢を見た・前編」1992

「南房総に夏の終わりの夢を見た」前編 ★1992年8月21日(金)15時。キャプテン高橋とゴブリンズ新人・新妻英利は、ついに総武本線千葉駅から鴨川キャンプの拠点、民宿ウエダ(天津小湊町)までの162.2キロをローラー・ブレードによって走破する事に成功。これは前回の東京−富士間77.5キロを、84.7キロ上回る距離であった。 千葉 - 鴨川ブレード走行記 1日目 〜 2日目「千葉駅 〜 木更津 〜 鋸南町」 *前半 目次* 待ち合わせは千葉駅 快調な滑り出し16号 あまりに場違いな昼食 塩吹くキャプテン高橋 『すえひろ』で生き返る 場違いな宿、グランパークホテル 朝、雨が降っていた 救いのオヤジさんが現る あじフライとあじの天ぷらは違う 音無き警鐘が聞こえる 午後の海辺をブレード・ランナーが行く ノコギリ山に思わぬ敵が待っていた 岬で『岬』と言う喫茶店に引き込まれた さらに苦難の道は続く 民宿は旅のオアシスだ 後編へ・・ ■ 待ち合わせは千葉駅 ■ 嵐が幾つか通り過ぎる頃、空はどこか澄んで、別の季節の色を見せていた。6月の『東京—富士ブレード走行』から、約2カ月、常にキャプテン高橋の胸に去来していたイメージは、南房総のまぶしく輝く海、熱い夏の空気を切り裂く、ブレード・ランナーの姿だった。 8月18日火曜日、9時半。総武本線の終点、千葉駅のホームで、高橋、新妻の両者は、ブレード走行決行のために待ち合わせた。新人・新妻英利君は、果たして心強い伴走者となるのか、それとも単なる足手まといとなるのか、それは誰にも解らなかった。 天気は曇り気味。雨を予感させる黒い雲も漂っていた。南では台風が近づいていると言う。天候はどうなるのか、全く予測が立たなかった。 二人は『総武線千葉駅ホームの進行方向一番前』で会うことにした。気持ちを『前向き』にするため『一番前』を選んだのだ。しかし、ここは終着駅なので、折り返して電車が出発すると『一番うしろ』になってしまう欠点が有った。だが、そんな事にかまってはいられない。二人は勇躍駅を後にした。 ■ 快調な滑りだし、16号 ■ 16号沿いの歩道で用意をする。前回強烈な靴ずれの痛みに悩まされただけに、今回は、テーピング、ワセリン、ガムテープで、対策に万全を期す。用意が済んで立ち上がると、お巡りさんが自転車を止めてじっと見ているのに気づいた。二人は何も悪い...

「筑波霞ヶ浦 りんりんロード」2022

  ★ 「りんりんロード 岩瀬 - 土浦 42.1km」 360度動画です。YouTubeへ移動して見てもらうと、上下左右の全方向へ画面を動かすことが出来ます。字幕をオンにして見てください。 2020年、世界は新型コロナの恐怖に見舞われました。ブレード隊も違わず走行中止に追い込まれ、そのまま、翌2021年も中止となりました。 その間、緊急事態宣言による「他県への移動禁止」で、茨城県の「筑波霞ヶ浦りんりんロード」も、サイクリング客激減となったことは確かでしょう。ところが、この激減の機会をうまく利用?したのか、2021年後半、「りんりんロード路面改修工事に着手」 の情報が飛び込んで来ました。 来るべき「コロナ終息」のチャンスに備えたのでしょうか?。ですが、それはサイクリング客だけでなく、我が「ブレード隊」にとっても、またと無いチャンスでした。なぜなら、改修工事が行われた直後の舗装路面は、非常に滑らかでスケートが滑りやすいからです。 高橋の経験のよれば、どんなにキレイで滑らかな路面でも、3年から4年の内に少しずつ荒れて来てザラついた地肌になってしまいます。「出来立ての滑らか路面」を完璧に堪能できるのは、完成からわずか1〜2年間だけなのです。そのため、我々はこの二度とない?チャンスを逃すわけには行きませんでした。 昭和62年に廃線となった旧筑波鉄道の廃線跡を利用して、2002年に完全開通した「りんりんロード」が、大震災を乗り越え、全面改修工事が行われたのは、20年後の2021年、と言うことは・・ もしこのペースで改修が行われるとしたら、次はさらに20年後の2041年と言うことになるでしょう。つまり高橋の年齢は80代半ば、他のメンバーも70代となっており、それを考えれば、事実上これが「快適路面の最後のチャンス」と言っても過言ではないのです。 GOBLINSブレード隊2022 「りんりんロード 岩瀬 - 土浦」 午前9時57分:JR水戸線「岩瀬 駅」出発 午後4時04分:「土浦駅」到着 走行距離:約41.2km

「清水 - 安倍川」2007静岡単独

  ★昨年 2006年 、連休直前に骨折してブレード走行は断念しましたが、2007年はブログ写真投稿でも分かるように、2年ぶりに無事?予定の距離を完走して来ました。距離は約30kmと、これまでより大幅に短くし、ゆっくり情景を楽しみながら行って来ました。 天気は晴天で、海もきれいで、気温もちょうどいいくらいでしたが、腰から太ももにかけて痛みがあったことや、路面が粗かったことなどで、途中、今までに無い脱力感に襲われました。やはり年齢のせいでしょうか?。頭の中では「物事にはやがて必ず終わりが来る」という言葉が何度も去来していました。 ・・が、確かにあの時は「もう終わったかな・・」とも思ったんですが、数日たった今は、またふつふつと冒険心が湧いて来つつあるのです。まったく困ったもんです。まあ今後のことは、とりあえず今回の走行記をアップして、それからゆっくり考えることにします。  ブレード走行のため清水に来ました。自転車道はありましたが路面が粗いです。 こんな道が続いています。ちょっと腰が重いのでゆっくり進みます 公園で一休み。天気すごくいいです。ワセリンを塗り忘れたのでここで塗ります 海です。富士山見えますか? 三保の松原まで来ました 延々と続く海岸線。快適なのか、退屈なのか・・ 国道150号と交わりました。iPodを聴いてます ゴールの安部川まであと5キロです 安部川駅に着きました。駅のベンチです。かなり疲労しましたが、満足感に浸っています   Commented by < 鈴木隆>  at 2007-05-10 2~3ヶ月に一度、丸子へ行ってますが海は見たことなかったなぁ。 安倍川駅なんてあったんですねぇ。知らなかった・・・。 静岡駅周辺だったらいい店紹介したのに。 インター近くのマンガ喫茶・ネットカフェにサウナはメンバーになっている鈴木でした。 Commented by < 高橋10>  at 2007-05-11 そうですか、それは惜しいことをしました。安倍川と言うのは「安倍川もち」の発祥の地なんですね。途中の店にそう言うこと書いたのぼりが立っていて、それを見てこの歳になって初めて知りました。