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「茨城46億年後の一期一会 .2」1996

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<高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半>

1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」

あつい! ようやく夏なのか!

ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。

国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。

歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。

ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。

緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。

ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。

キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。

245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。

30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。

「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。

だんだんいい感じになって来たな・・、と思いながら先頭に立つ。

その辺りから、左は雑草の生い茂る急な土手となった。草むらの間からは久しぶりに海が覗けた。やがて滑っている道が次第に高さを増して行くのがわかった。視界が広がり、斜面の下にハッキリと海が見え始める。砂浜だが、まったく人影は無かった。

海が見えたことで、気分が伸びやかなものになった。黙々と滑っていると、陽射しも強くなり、すっかり真夏の午後らしくなって来た。路面温度は31度まで上昇、後方の森広君の額にも汗が光る。

「もっと、カッ! と暑くなってくれないかなあ」
それでも森広君のモンクは続いた。

滑っている内に喉が渇いて来た。適当な場所を見つけたいが、「自販機が有ってなおかつ広いところ」が見つからず、そのままズルズルと滑って行った。

そうしているうち、眼下の海岸線に一本の道のようなものが見えて来た。あんなところに、道路だろうか?と想い、脇道を見つけて下って行くと、やっぱり、きれいに舗装された海岸道路だった。

「しまったなあ。どこから始まってたんだ?」残念。三人が国道245号で苦労している間に、こんな良い道路が出現していたとは・・

だがこんないい道を、「あいつら」だって放っておくわけがなかった。その道を通る車は、それはそれは凄いスピードで威圧するかのように走り抜けて行く。これは危険だった。その道は路側帯を取るスペースが無いほど狭かったのだ。

やれやれ、あんたが大将!と車に道を譲り、すぐ横の防波堤の上を行くことにする。そこは歩道の役目もしているらしく、歩行者は皆そこを歩いていた。すぐ下の砂浜には、たくさんの波消しテトラポッドが置かれていて、それが途切れた100mほど前方に、海水浴場らしき人だかりが見えていた。キャプテンは、あそこまで行ったら休憩にしよう、と二人に伝えた。

海岸の駐車場付近に到着するころ、防波堤は極端に狭くなり、肩幅ぐらいの「塀」になった。三人は荷物を降ろしてその上に腰掛けた。コンクリートの上は反射熱で35℃近くになっていた。

それぞれ、飲み物を買って渇きを潤したあと、森広君は上半身裸になって陽に焼き、新妻君は例の指割れソックスを脱いで干し始めた。

地図で場所を調べていたキャプテンは、駐車場の番をしていた高校生とおぼしき少年を見つけ、歩いて行って場所を尋ねることにした。

「ここは、何と言う海岸ですか?」

出来るだけ丁寧に話したつもりだった。しかし、反応は良くなかった。その少年は決して目を会わせようとはせず、低く小さな声で「みずき・・」と一言答えただけだった。

なんだこいつ・・

引き返しながら、あの年頃の男の子はどうも無愛想で困る、と思ったのだが、すぐに、いや待てよと言う気になった。良く考えて見たら、こんな穏やかな夏の日、こんな平和な海岸に、こんな見たことも無いガンダムのような奴らが、いきなり三人も滑り込んで来て、防波堤に横たわってだらしなく腹を出したり、不気味な指割れ靴下を干し始めたり、サングラスに歯医者が使うようなバックミラーを付けていたり、あまりにも不条理な光景を、不幸にも少年はごく至近距離で目撃してしまったのである。

「考えてみりゃあ、ムリもねえ話しよ」キャプテンはならず者のような口調でつぶやくのだった。その時、一部始終を見ていた新妻君が一点を指さしながら言った。

「水木海水浴場」

・・なんだ、ちゃんと看板が出てるぢゃねえか。


◆ ギリギリの決断、宿探し!

三人それぞれ、想い想いの姿で海からの風を楽しんでいた。そのあまりの心地よさに、「2時半まで、30分の大休憩だ!」と言うことになった。

防波堤から見ると、砂浜はかなり長い距離に渡って広がっていた。しかし泳げるのは岬までのおよそ50mで、遊泳禁止区域の方が数倍も大きかった。その大半がテトラポッドに占領されており、たくさんの人々がその上に登って遊んでいた。その状況に、盛んに「泳禁止区域内には入らないでください」と言う監視員の放送が響き渡るが、引き返そうとする人は少なかった。

ふと、先ほどの少年を見ると、同級生らしい女の子数人が囲んで、何やらからかっているのが目に入った。少年もニコニコ笑い、ほのぼのとした光景だった。そのすぐ前を、まだ焼けていない白い肌の少女が、ビキニのまま横切る姿に目を奪われた。

「あの子ら、危ないなあ」と言う森広君の声に振り返ると、幼い子供数人が、砂浜の浅瀬でよろよろと立っていた。波が大きく、今にも頭からかぶりそうで怖い。「ほんとに危ないよ」親はどこにいるのだろうと想った。

その向こうには、遠く音のしない波。そして水平線。あそこから風が吹き抜けて来るらしい。

「出発は、2時45分にしましょう」新妻君が提案した。どうやら彼の頭は、のどかな海岸の雰囲気にすっかりとろけてしまったようである。だが、そう言うわけにも行かなかった。

「だめだ」キャプテンは即座に却下。少しずつ遅らせると最終日にしわ寄せが来てしまう。何しろ新妻君はゴブリンズ犬吠キャンプの総合幹事なのである。幹事と言うのは、メンバーより先に到着して、いろいろ段取りをつけておかなくてはいけないものなのである。

「それとも、そこに泊まるか?」キャプテンはすぐ目の前の民宿を指さした。返事は無かった。

「時間を気にする旅はヤボだ」それはキャプテンにもわかっていた。でも、途中で電車やバスに乗って遅れを取り戻すのは、それ以上にヤボなことだ。けっきょく、2時30分に準備を始めて、実際に出発したのは2時45分だった。

「この海も、たぶん二度と目にすることはないのだろうな」
・・行く、と決まったら急に惜しくなった。

滑り始めてすぐに坂を上り、国道245号に復帰する。のどかな海の光景を焼き付けた目に、この車通りはいかにも殺伐としていた。

時刻はあっと言う間に3時を過ぎ、そろそろ宿のことが気にかかって来る。もしもの時のために「おさえ」をチェックしておこうと思ったが、人のいない海岸ばかりで、宿も見当たらなくなっていた。

「まあ、いいか」と思う。今までの経験では、チェックしておいても、引き返して泊まることはまずないからだ。一度進んだ道を引き返すのは、前進する以上に難しい行為だった。

あれこれ思案しながら滑り続けて行くうち、かなり高い場所を滑っていることに気づく。やがて不意に視界が開け、すぐ脇が崖になっている場所に出た。そのはるか眼下に、人だかりの有る海水浴場を見つけたのだ。『久慈浜海水浴場』だった。

見下ろすと、何軒かの海の家の屋根が見え、その周囲をたくさんの人の頭がうごめいていた。三人は立ち止まり、ガードレールに寄り掛かってそのようすを眺めた。森広君が『写ルンです』を取り出し、『鳥の目』になって写真を撮り始める。確かにこれは珍しい光景だ。

「寒そうだな」キャプテンが言った。

少し前から曇り始め、滑っていると肌寒いくらいだった。路面温度25℃。見上げると、黒い雲の塊が迫っていた。上空にはかなり冷たい空気が流れ込んでいるようだ。

「夕立が来るのかな?」キャプテンは思った。

行く先に目を移すと、遠く、海づたいに港が見えた。もしあれが『日立港』だとすると、間もなく『久慈川』を渡ることになる。予定では、その久慈川を渡った『豊岡』に4時到着。その辺りで宿をとるはずだった。だが、すでに3時半を回ろうとしていた。果たして時間内に行き着けるだろうか。

久慈浜海岸を離れ、再び滑り始める。

サングラスは必要なかった。空はどんどん暗くなり、もたもたしてられないと言う気配になった。急ぎ気味に滑っていると、港がじりじりと近づいて来るのがわかった。それにつれ次第に港の全貌が明らかになって来る。

幾何学的に作られた埋め立て地と、立ち並ぶ巨大なクレーン。そしてブルーグレイに反射する海面。

「でかい!」思わず唸った。これはかなり大きな港である。地図で調べると、やはり『日立港』に間違いなかった。こんなにでかいとなると、30分で通過するのは無理なのではないか。・・新妻君の足の具合が気になる。しかし、この埋め立て地に宿が有るとも思えなかった。

信号待ちで止まった交差点の先は、長い下り坂になっていた。青に変わってほとんどノンストップで降りて行くと、そこはもう倉庫の立ち並ぶ埠頭だった。頻繁に往来する車もほとんどが大型トラックである。

「こりゃあ、宿は無いな」雰囲気からして、ほとんどあきらめ気味だった。ところがである。さらに進んで行くと、幹線道路から別れて行く細い道が見つかったのだ。それは、古い小さな港町に続いているようだった。この想いがけない町の出現に、キャプテンは二人をストップさせた。

分岐点でもう一度地図を調べると、目的の『豊岡』まではまだ30分以上かかると言うことがわかった。出来ればこの町で何とかしたい。・・と、町の案内板を調べたところ、その真ん中あたりに、一軒だけ『須賀屋』と言う旅館があることに気づいた。

「とりあえず、ここへ行ってみるか」二人を促し、そこへ向かうことにした。しかし、こう言う寂れた町では無くなっていることも多く、過剰な期待は出来なかった。

・・と思ったのは大きな間違いで、その場所へ行って見ると、真新しい三階建ての、まるでビジネスホテルのような立派な旅館が建っていたのである。旅館の前には道を挟んで、これもちょっと場違いな『サンピア日立』と言う、巨大なスポーツセンターがそびえていた。

その周辺の並木道を眺めながら、「なるほど、この一角だけは辛うじて客商売になっているらしい」と想った。

旅館の入り口に回って、ガラスの扉越しに様子を見ると、中は薄暗くしんとしていた。どうもやってなさそうであった。

「少し先へ行ってみるか?」扉をたたく気にもなれず、三人はまた滑り始めた。だが、いかんせん景色はどんどん寂しくなって行き、草ぼうぼうの空き地ばかりが目立って来た。

・・やっぱりあの旅館か。


◆ 招かれざる客?

引き返して、キャプテンが旅館の扉を開けた。鍵はかかっていなかった。正面のフロントには誰もおらず、声をかけても出て来ない。

「変だなあ。やっぱりやってないのかな?」薄暗いロビーを見ながら想った。左の部屋では、テーブルにイスが逆さに乗せられていた。食堂らしい。

「休業なら鍵がかかっているはずだよなあ・・。ごめんください!」と、さらに大きな声で呼びかけると、暗い食堂の奥で、のそりと起き上がる人影が見えた。誰かが座敷席で昼寝をしていたようである。間もなくサンダルを履いて明るいところまで来ると、その人はお爺さんだとわかった。

「三人なんですが。泊めてもらえませんか?」と言うとお爺さんは、「はあ・・」と無愛想に返事をしただけだった。それ以外何も言わないので、「とりあえずはOKなのだな」と想い、外に出て、待っていた二人に荷物を降ろすよう指示した。

ブレードを脱いで再び中に入って行くと、いつの間にかお爺さんの他に女将らしき中年の女性と若い男がいて、顔をつき合わせて何か話し込んでいるところだった。

「お願いします・・」と言うと、三人はいっせいに振り向き、鋭い目つきでキャプテンの顔を覗き込むのだった。何となく異様な雰囲気である。

「・・あ、あの、三人なんですけど、いいんですか?」と言って確かめたが、女将さんが小声で「はい」と言っただけで、何だかとても無愛想なのだ。

ちょっとイヤな感じだなあ、と想いつつ、女将さんに案内され「エレベーター」で三階の部屋まで行った。・・ますますビジネスホテルみたいだ。でも部屋の床は畳みじきで、なるほどこの辺は旅館の風情を残している。

今回も二つの部屋をあてがわれ、『ホテル塚本』と同じように、キャプテン一人、新妻+森広の二人、と言う具合に別れた。

荷物を降ろしながら、森広君が言った。「招かれざる客・・」

旅館の人々の無愛想なようすに、彼もそう想ったのだろう。確かにあれはおかしい。まるでミステリードラマのわけ有り旅館みたいである。もしや昔ここで殺人事件が有ったのでは・・。そんな空想さえしてしまう。

しまった! 気おくれして料金を聞き忘れた。大丈夫だろうか・・。2、3万ぼったくられるのではないだろうな。

とりあえず荷物を降ろして、すぐ風呂にする。風呂は二階に有って、まあまあ新しくきれいだった。三人ならゆったりと入っていられる。さすが「旅館」だ。風呂の大きさは民宿ではこうは行かない。

風呂から上がって洗濯を済ませると、間もなく食事の時間となった。インターホンで呼ばれて一階の食堂へ降りて行くと、すでに10数名の客が席に付いていた。

・・なんだ、ブレード隊だけかと想ったら、けっこういたのだ。それとなく見回すと、奥の座敷には一組みの家族。ブレード隊の後ろのテーブルにもう一組の家族連れ。隣には初老の男達がいた。

初老の男達は見当がついた。たぶん釣り客だろう。しかし、親子連れは? ・・あの巨大スポーツセンターで遊んで来たのだろうか。それとも他に観光スポットが有るのだろうか。

「とにかくビール!」と言うことでビールを頼み、まずは乾杯。それからご飯をよそい、みそ汁のお椀のふたを取る。・・なかなか、期待してたよりいい香りだ。さらに、次々に運ばれて来る料理を見ていたら、これがけっこう豪華なのである。

「なんか、いけそうだよ」と三人は顔を見合わせた。

料理は、一目で上物と解る色合いをしていた。刺し身、焼き鳥、野菜、それにスープ。どことなく和洋折衷だが、量は少なめに、しかし、ひとつひとつが丁寧に作りあげられており、上品な趣を感じる。

「これは・・」一口食べただけで解った。「これは、当たりだ!」。新妻君が焼き鳥を食べかけて、すぐ大事そうに皿に戻した。「これ、とっておいて後で食べよう」

三人とも静かに、しかし想いがけない料理との遭遇に「うまい!」を連発、絶妙の味を楽しんだのであった。宿の人達は無愛想で感じ悪いが、こんなに料理が美味しければいいか、と思っていると、思いがけず女将さんが話しかけて来た。

「”あれ” で、ずうっと来たんですか? 自転車とかバイクで寄ってった人はいたけど、スケートで来た人は初めてだわ、ねえ?」

と振り返り、調理場から顔を出した板前に声をかけた。見るとさっきの若い男である。あの男、板前だったのか・・。すると、この料理はあの男が作ったと言うわけだ。ひょっとして女将さんの息子さんか?

「初めてですか? そうでしょうねえ。その、自転車なんかで来た人も、やっぱり飛び込み客なんですか?」

「そう、ぜんぶ飛び込み。いつかなんか、定年退職してやっと時間が出来たって、男の人がね、たった独りで東海村の方から自転車こいで来たんだけど、あんまりきついんで、ここで力つきたから泊めてくれって・・」

女将さんは笑顔で、料理を運ぶのも忘れるほど、ブレード隊との話しに夢中になっていた。

そうだったのだ。宿の人達は無愛想なのではなく、ブレード隊の正体が解らず、腰が引けていただけなのである。ブレード隊は自分達の格好に慣れてしまって気づかないが、初対面の人にはそれこそ、気が動転するくらいのショックを与えているのかも知れない。「異様な雰囲気」なんて失礼なことを言ってしまった。異様なのはブレード隊の方だったのである。

その後、女将さんは、この宿が建て替えて見た目は新しいが、百年の歴史を誇る由緒正しい旅館であること。それから、最近は下手な民宿は旅館よりも高くつくから気をつけるように、とのアドバイスもしてくれた。その言葉通り、旅館須賀屋の料金は、一泊二食付き一人¥6800-であった。(ビール代別)

百年と言えば、宮沢賢治が生まれた頃のことか・・、とぼんやり考えていた。

それにしても、泊まれるだけでいいか、とあきらめ気分で訪ねた旅館で、こんなに美味しい料理と、愛想の良い女将さんに会えるとは・・

「やっぱり、この旅はツイてる!」


◆ 夏の大木彫り大会はじまる!

食事を終えると、部屋に戻って『木彫り大会』が始まった。

これはキャプテンがブレード走行の際に、『オブジェ設置アースアート』と言うアート活動をしていることから、興味を覚えた新妻君が、「今回は、走行中に木を彫ってオブジェを作り、それを設置しましょう」と提案したのである。

木はキャプテンが『ドイト』で買って来た6×6×6cmのバルサ角材。これなら彫るのは簡単だ。道具は、「何を用意すればいいですか?」と言う新妻君の質問に、「彫刻刀一本買って来い」と指示したが、彼ははその他に、彫刻には不向きなアウトドア用ナイフも購入して来たのであった。なぜなら彼の頭の中には、
『森で切り株に腰掛け、木を彫るCWニコルさん』
あるいは、
『暖炉の前でウィスキーを傾けながら、木を彫る倉本聡』
または、
『無人島のまぶしく輝く海辺で、木を彫る椎名誠』

・・などの、各種理想像が出来上がってしまい、自分もその中の一人だと想い込んでしまったようなのである。

森広君はと言えば、突然バルサ角材を手渡され困惑気味だったが、彼も美大出身、K2(インラインスケートの一種)のブレーキ改造も手掛けたほどの造形力の持ち主である。「ブレードの形を彫ったらどうだ?」とのキャプテンの提案に、「なるほど」とうなづき、おもむろに彫り始めた。

さて、木を削り初めて間もなく、あれほど「理想の木彫り人像」を追及していたはずの新妻君が、なんと、” ブヒッ ”「・・っおおう」と放屁をかましたのである。

なんて男だ。親しき仲にも礼儀あり、目上の前では姿勢を正せ、とのキャプテンの願いも空しく、今度は森広君までもが、" ブブブバッ "「・・っおおう」と放屁である。

こいつ・・。前回まで、キャプテンとの二人きりでの走行では、物静かな好青年を演じていた森広君だが、同年代の仲間を得て、ついに解禁状態となったようである。

『親しき仲にも放屁あり。目上の前でも姿勢を崩して出しやすく』

彼らの音色からは、そんな無言の挑戦とも受け取れるメッセージが読み取れるのであった。果たしてこの挑戦を受け、やはりキャプテンも放屁の応酬をかますのか?

三人の間に飛び散る火花。
そうして、ジリジリと対決の夜は更けて行くのだった。






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<高崎伊勢崎自転車道「井野 - 伊勢崎 51.9km」2010> ◎ 井野ー伊勢崎 GPS走行ログ ★2010年5月2日、インラインスケートによる、群馬ブレード走行を行いました。今回は「高崎伊勢崎自転車道」と言うサイクリングロードを、高橋、土屋、遠藤の三名で滑りました。集合駅は両毛線「井野駅」。そこから数百メートル離れたスタート地点から出発、ゴールは自転車道沿いにある、伊勢崎市の「まちかどステーション」と言うバスの待合室。 当初、走行距離は「42km」の予定でしたが、途中コースを間違えて引き返したり、工事中の迂回で大回りしたりなど、少しずつ距離が増えて行き、けっきょくは「51.9km(iPhone・GPS測量による)」と言う、大変な距離を滑ることになってしまいました。「体力の限界」という言葉が有りますが、本気でそれを味わいました。 それがどんな道のりだったのか。ほんの一部ですが、デジカメで撮影したムービーなどを参照してみてください。デジカメのレンズにホコリが入ってしまい、多少見づらい部分が有ります。(修理の見積もりを出してもらったら2万円近くかかるとのことで、そのままになってます) ただし体力の限界のため?、残り約8kmと言うことろで、撮影やブログアップなど、何もする気力が無くなってしまい、残念ながら終盤部分のムービーなどが有りません。ご了承願います。 パンラマ写真・土屋氏提供 走行中に送った写メール 出発です。伊野駅から川沿いの自転車道へ 出発から10kmほど。大きな公園内で休憩 広々として野球場が見えて来ました 道を間違えましたが、ついでに昼食 緑の中の気持ちいい道 だいぶ疲労して来ました。景色も単調? 野球見物は何故か楽しい。休憩ついでに 51.9km 終了!。疲れました・・。スーパー銭湯までタクシーを呼びます

「飯倉 - いいおかみなと公園」2016

◎ ブレード隊走行ログ ★2016年5月5日。1年ぶりに、恒例の「ブレード隊」インラインスケート走行が行われました。今回はブレード隊の原点である「海岸線ルート」を選択。とは言え、公道はなるべく避けて通りたいので、主に農道や、海岸線のサイクリングロード(太平洋岸自転車道)を滑りました。 ただし、隊長:高橋は、年齢による体力の衰えと、足首周りの故障のため、インラインスケートではなく、より消耗の少ないキックスケーター(左写真・もちろん大人用)を使用しています。そのため、カメラは手持ちではなく、スケーターに直接取り付けまして、そのせいで、動画には振動とカラカラと言う車輪のノイズがかなり入っております。 さて、1992年に、初のインラインスケートによる長距離走行「八王子 - 富士吉田・約80km」を行ったときは、国道413号の公道にもかかわらず、すれ違う沿道の人々に歓迎され、励まされ、ついには白バイの警察官にまで、わざわざ拡声器で「ガンバレ!」との応援をいただき、力を得て進んだものですが・・ 包容力に満ちたあの時代から二十数年・・ ネット社会になってからと言うもの、正義の名の下に、自分たちの意にそぐわない者は、立ち上がることも出来ないほど寄ってたかって潰される、と言う現状を見るにつけ、世代が入れ替わり、「包容力」の意味も通じなくなったかのような世の中で、今になって、あえて一般道を滑るのはどんなもんだろう?、と言う不安も確かに有りました。 ですが、すれ違う農家の方々はみな好意的で、みな会釈してくれたし、笑顔で「楽しそう!」とか「頑張って!」とも声をかけていただきました。‥‥まことにありがたい話しです。農道は公道ではなく私道扱いなので、言わば人んちの庭を滑っているようなもの。なのでもちろん、こちらから頭を下げて通らせていただきましたよ。 いちおう、法律的な解釈を以下に記しておきます。 道路交通法第76条(禁止行為) 「交通のひんぱんな道路において、 球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること」 動画を見てもらえれば分かりますが、「交通のひんぱんな道路」と言う条件には当てはまらず、よって禁止行為には当たらないことになります。むしろ動画は、映像にアクセントをつけるため、数十分のストックの中から、わざと車の写ってる部分をピックアップしたくらいです。条件を考慮せず

「渡良瀬川自転車道」2011

<渡良瀬川自転車道「小俣 - 藤岡 37.6km」2011> ◎ EveryTrai「小俣ー藤岡 ルートログ」 ★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。 震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルし、次回以降に期待しようと想いました。ですが、震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。 試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになりました。で、震災から2、3日後でしたか、これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると日本経済沈没の危機になりかねない、との直感が働くようになりました。 ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。 たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。 そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも普通の暮らしを」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。 それにしても東京都知事の、東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。 同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。 さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡

「手賀沼周回ルートへ行った、が・・」2013

 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5kmは

GOBLINS・ブレード隊とは?

★ 「ブレード隊とは?」 草野球チーム・ゴブリンズを母体とし、そのメンバーの中から、インラインスケートによる長距離走行をするために集まったチーム。 1990年、元ゴブリンズのメンバーで当時NY在住のM氏から、セントラルパークで流行し始めていた「ローラーブレード・ゼトラ303」を、ゴブリンズのキャプテン高橋が、帰国土産として手渡されたことから始まる前代未聞の旅のお話しである。  記念すべき最初の走行は、高橋による単独走行。ローラーブレードを手に入れてから2年後の1992年6月、「道志道」と呼ばれたアップダウンの険しい*国道413を、八王子から富士山(山中湖)を目指して、単独インラインスケートによる約80kmを、二日かけて走破することに成功した。 (*国道413:2020東京オリンピック自転車ロードレースのコースとなった道) 2006年までに走破した全ルート 同じ1992年の8月、その話しに興味を持ったゴブリンズ新人で10歳下の新妻が初参加。インラインスケートによって、千葉駅から天津小湊の民宿までの162.2kmを、真夏の炎天下、四日間かけて二人で走破。これが後々、伝説として語り継がれる?「ブレード隊」誕生の瞬間であった。 「ブレード隊命名」・・当時の日本では、まだ「インラインスケート」との呼び名は無く、一列に並んだローラースケートは全て「ローラーブレード」と呼ばれていた。そこで我々も複数メンバーによる走行を略して「ブレード隊」と呼ぶことにした。 しかし、まだ動画はおろか携帯電話さえ無い時代。それゆえ、当初は高橋による手記「走行記」と言う形で発表。その後、初の記録動画としてまとめられるまでには、さらに20年以上の歳月が過ぎるのを待たねばならなかった。(動画はYouTube:一部は限定公開) 動画以前、走行記の目次 ◇ ブレード走行記(文章形式)目次