千葉 - 鴨川・ブレード走行記(白浜でリアタイア)
目次
昼食の間に天気は完全に回復し、再び強烈な陽射しの中を進むことになった。太陽を浴びると、また気分が悪くなってくるような気がした。
少し不安を感じながらも進んで行くと、道の先に見覚えの有る信号が現れた。二年前キャプテンと新妻君の脇で起きた、あの二重追突事故の現場だ。確かにここに違いない。まじまじと周囲を眺め、事故なんて起きそうに無いのになあ、そう想った矢先のことだった。横を通り過ぎた車が、またいきなり急ブレーキをかけたのだ。
「おい!?」とあわてて振り返ったが、幸い事故にはならなかった。またしてもブレード・ランナーが珍しくて前方不注意になったのだろうか。それにしても・・、なんだか嫌なポイントだ。
『湊川』の橋を渡り、右に大きくカーブする山沿いの道をたどると、やがて東京湾浦賀水道の海が見えてくる。遥か向こう岸は三浦半島横須賀の港だ。この辺りからずっと海岸沿いを滑ることになる。キャプテンは、すっきりしない気分を抱えたままではあったが、海を眺めることで力を回復出来ると信じていた。
その道は人の気配が無く、車だけが風を切って行く。歩道は、ゴム状の継ぎ目を飛び越える以外気を使うことはなく、滑らかな路面が続いていた。海側は断崖になっていて、そのギリギリに、幾つかのレストランや小さなホテルなどが建ち並んでいた。
しかし車が数台止まっているだけで、賑わいと呼べるものは感じられなかった。シーズンの盛りにはもっと人が訪れるのだろうか。どの店も、捕れたて新鮮魚介類の料理が売り物らしく、そのことを謳った看板が立てられていた。
「知る人ぞ知る、穴場と言った店が有るのかも知れないな」そんなことをぼんやりと考えていた。
道路から見える崖下の砂浜では、数人の人々が海水浴を楽しんでいた。海の家も無い静かな浜辺は、さながらプライベート・ビーチと言った雰囲気である。そんな光景が何度か現れては消え、『金谷』の辺りまでは、比較的楽しみながら滑って来ることができた。
どのくらいたったのだろう。かなり疲れを感じたところで、丁度よく木々に覆われた細い脇道を見つけた。迷わず滑り込んで、荷物を降ろすことにする。
そこには、心地よい風が吹き抜けていた。道の両側に古い小さな家が建ち並び、遠く水平線が見えていた。そのまま下って行けば海岸に出られそうである。
休んでいると、お婆さんが一人と、職人らしき初老の男二人が、何事も無かったかのように通り過ぎて行った。
それからまた人影は無くなり、午後の風が吹き始めた。
地べたに座り込んだまま汗を拭いていると、裸足になった足元に、小石が一つ転がっていた。
「この石は、オレがここに来る何年も前から、そして立ち去ったあと何年も、同じようにここに転がったままなのだ・・」
「この石は、オレがここに来る何年も前から、そして立ち去ったあと何年も、同じようにここに転がったままなのだ・・」
見上げれば、空にはクッキリした雲が浮かんでいた。あの空も、もはや真夏のものでは無い。透きとおった違う季節のものだ。本当の夏は、もうずっと前に終わってしまった。夏とは、気温や暦とは関係無く、ある日突然、かき消すように終ってしまう、そう言うものなのだ。
休憩で少しは良くなると想ったが、滑り始めると、気分の悪さは逆にひどくなって来る気がした。だがそれが、暑さのせいなのか、それとも身体の変調によるものなのか、はっきりとはしなかった。
想うように足に力が入らず、ついブレード・ブーツが横倒しになってしまう。そのせいで足首の辺りが擦れ、ヒリヒリと痛み出している。さっきの休憩からほとんど距離を稼いではいないが、この先に見えるドライブインで、また休憩を取った方がいいと想った。午後1時、一番陽射しが強くなって来るころだ。
ドライブインまで滑り着くと、店は休みだった。ガランとした駐車場には、見渡した限り日陰はない。それでもブレードを脱ぎ、自動販売機で飲み物だけでも買おうと想った。
そうして、ウエストポーチから財布を取り出そうとしたときだった。いきなり腹が痛み出したのである。それも、立っていられないような激痛だった。しばらく自販機にしがみついて我慢していたが、今度は、にわかにトイレに行きたくなってしまった。しかもただならぬ気配である。
これはいかんと想ったが、ドライブインの周囲にトイレは見当たらない。どうしようかと迷っているうちにも、事態はますます切迫して来る。慌てて辺りを見回す。怒涛のような便意が襲って来て、まずい! これはついに炎天下での野糞かあっ! と頭の中で叫んだとき、真っすぐな道のはるか向こうに、小さく四角いボックスが有るのを発見したのだった。
頼む、仮設トイレであってくれ・・
100m、いや150mはあるだろうか。トイレと言う保証はまったく無かったが、とっさにブレードを履き、荷物を背負うと、必死のダッシュを試みた。滑り出すとやや便意を忘れるようであった。
今のうちに!と、そのボックス目がけて恐ろしい勢いで近づいて行くと、幸運にも、仮設トイレに間違いないことが判明した。どうやら工事用資材置き場に建てられたものらしい。少し離れた所に、詰め所のようなプレハブが有ったが、中には誰もいない。
とにかく何であれ、貸してもらうしかない。もう誰にも止めることは出来ないのだ。トイレのノブをつかんだ時には、もはや、のっぴきならぬ状況と化していた。ブレードを脱いでいる時間は無い。このまま飛びこませてもらいます!
風が熱い・・
ノコギリ山は相変わらずキザキザの山頂を見せていた。キャプテンは放心したように滑っている。
先ほど物凄く熱いトイレの中で用を足し、想像以上に体力を消耗してしまったようだ。喉は渇き切っていたが、腹具合の悪さが水分を取ることをためらわせた。それでも、汗はとめど無く流れ続けている。
『喫茶・岬』に着くまで我慢し、そこでアイス・コーヒーでも飲もうと想った。あそこならトイレも有るし、休んで行ける。そう考えて、よし、と想ってからが長かった。
前回走行時の記憶は、各ポイントごとの断片的なもので、ノコギリ山の頂きが見えてから『岬』まではほんの30分ぐらいのように想っていた。しかしそれは間違いで、実際に滑ってみると、1時間過ぎてもまだ着く気配が無かった。やがて、トンネルが一つ二つと現れ始め、ああそうだった、その前にトンネルが有ったのだ、と想い知らされ、改めて、相当な距離が有ると言う記憶が蘇って来たのである。
一説に、旅は一度通った道をなぞってはいけない、と言う言い方があるが、それは正しいのかも知れない。疲れ切った身体をおし進めてくれるのは、次々に現れてくる新しい風景なのだ。今回、次第に前進する意欲が失せて来るのは、35℃以上の熱さと、13kgの荷物の重さと、36歳と言う年齢のためだけではないらしい。未体験の道と、経験済みの道とでは天と地ほどの差があるようだ。
明鐘岬への入り口に着いたのは午後2時を過ぎたころだった。そこには127号の長いトンネルを迂回する道があるが、迂回路は舗装されておらず、ブレードを脱いで歩かねばならない。
観光客用の駐車場で荷物を降ろしていると、小さな女の子が、キャプテンの姿をのぞいて逃げて行った。その子の行く先に目をやると、父親が、車に海水浴の道具を積めこんでいた。その横にも車が数台止まっていて、どうも、前回来たときより賑わっているように見えた。
ブレードを脱いでアウトドアサンダルを履き、のたのたと歩き始める。歩くと言う行為が、もどかしいほどの速度だと想えて来る。
駐車場を抜け、道なりに進むと、眼下に海が見えて来る。そうして、左手には例の店、『岬』が現れる。喫茶室とは言え、木造の小屋のような建物である。壁をペンキで塗り替えたらしく、妙に色鮮やかになっていた。
入り口の前に回り込むと、二人の女性が立ち、海を眺めていた。その一人の方は、確かに見覚えの有る「岬の女主人」に違いなかった。もう一人は解らない。もっと若い、30代と思しき女性である。
女主人はキャプテンを見つけると、ニコッと笑って、
「どうぞ、休んでってください」
と言った。しかし、二年前のことを想い出したと言うわけではないようだ。
その声に促されるまま店に入ると、狭い室内には、数人の釣り人らしき客が休んでいた。その内の何人かは、キャプテンを見て、切っかけを見つけたかのように立ち上がり、無人のカウンターに金を払い始めた。
それらの客達が出て行くと、店には、頭にバンダナを巻き無精髭を生やした中年ビーパル野郎と、ヤンキースのキャプを後ろ前に被った若い男が残った。ビーパル野郎もそろそろ出掛けるつもりなのか、煙草とライターをポケットにしまおうとしている。
キャプテンはビーパル野郎のハス向かいに座ることにした。店の内装はほとんど変わっていないように想われた。海側の窓に備え付けられた望遠鏡もそのままである。以前同様、開け放した窓からは絶えず風が吹き込み、熱さを感じない。ずっと休んでいたくなるほど気持ち良かった。
やがて、女主人ともう一人の女性が店の中に戻り、飲み干されたグラス類を片付け始めた。アイスコーヒーと決めていたが、いちおうメニューを見るふりをして注文を待っていると、突然ビーパル野郎が大きな声を出した。
「あれえ?! キミさあ、自転車?」。男はキャプテンに向かって、疑うような口調でそう言った。「あっ?・・いえ、自転車じゃなくて、ローラー・ブレード・・。ローラー・スケートみたいなもんですけど」
「ローラー・スケート!?」
「ええ、タイヤが一列に並んでるやつ」。そう言うと、男は少し間を置いて、「それじゃあさ、ひょっとして、きのう16号を滑ってなかった?」と質問してきた。
「はあ・・。確かに、きのうは16号を滑ってましたけど?」
「ホント?! じゃあキミだ!」。男は驚いた様子で言った。「やっぱり、オレがきのう見たのはキミだったんだ。そうそう、そのハデなザックだったもんなあ」そして、なるほどと言うように頷いた。
「ホント?! じゃあキミだ!」。男は驚いた様子で言った。「やっぱり、オレがきのう見たのはキミだったんだ。そうそう、そのハデなザックだったもんなあ」そして、なるほどと言うように頷いた。
「そうなんですか・・」。キャプテンは呆気に取られていた。少しの間言葉が見つからず黙っていると、店の奥から女主人が水を運んで来た。
「ローラー・スケートって?。あら?、もしかして、初めてじゃないわよねえ?」ようやく彼女も気づいたらしい。
「はい、そうなんです。二年前に一度、二人連れで」
「そうそう、ここに来たわよね? そうだわ、へえ・・」。そう言いながら目の前にコップを置いた。
「何にする?」
「あの、アイス・コーヒーを」キャプテンがそう言うと、男も、
「せっちゃん、オレにもアイス・コーヒー作ってくれる?」と言った。
女主人は『せっちゃん』と言うらしい。せっちゃんだから、セツコとかセイコとか、そんな名前なんだろう。それに男の方は、口ぶりからしてこの店の常連のようである。彼はキャプテンに興味を持ったらしく、出て行くどころか、新しいアイス・コーヒーが来るのを待って、じっくり腰をすえて話そうじゃないかと言う意気込みある。すでに飲み終えていたグラスを自分で片付け、テーブルに染みた水を拭いていた。
「どこで見たの?」女主人がアイス・コーヒーを運びながら言った。
「ああ、あれはねえ、たしか、五井の辺りだったかな?。この炎天下で何やってんだこいつ!って想ってさ」
男はオートバイで東京から16号を走って来るところだったと言う。その途上でキャプテンを見かけたのだ。
「まさか、ここで会うとはねえ」。彼はこの偶然を楽しんでいるようだった。そのあと、キャプテンは二年前の鴨川走行のことを話し、そのとき、ここの妙な客に店に引き込まれてしまったことなどを話した。
「あのときも熱かったけど、それなりに気持ち良かったんです。でも、今年はきついですよ」
そうキャプテンが言うと、
「そりゃそうだ。今年の夏はバイクだってイヤになるくらいだぜ」
と答えてから、少し顔をしかめて「もう、やめた方がいいんじゃない?」とふざけて言った。
そうキャプテンが言うと、
「そりゃそうだ。今年の夏はバイクだってイヤになるくらいだぜ」
と答えてから、少し顔をしかめて「もう、やめた方がいいんじゃない?」とふざけて言った。
「じつは・・、オレも、そう想ってたところなんですよ」
キャプテンも笑いながら答えた。しかし、冗談のつもりが、本当に力が抜けて行くような気がした。
「どうして、また、こんなことをしてしまったのだろう」
そんな想いが湧き上がって来る。
極度の疲労と、灼熱と、身体の変調。何の利益も無く、出発前のウキウキした感じも消えている。残っているのは、途中であきらめたくないと言う気持ちだけ。
もし男に「なぜ、こんなことをするんだ?」と尋ねられたら、どんな風に答えていただろう。
『自分の夢を実現させる快感』
いつものように、さっそうと答えていただろうか。それとも「なぜだか、さっぱりわからない」と、つぶやいていたのか・・
『自分の夢を実現させる快感』
いつものように、さっそうと答えていただろうか。それとも「なぜだか、さっぱりわからない」と、つぶやいていたのか・・
ひとしきり話しを終えると、ビーパル野郎は、望遠鏡が備えられた窓に目をやった。その向こうに銀色に輝く海が見えていた。今日は釣り客が多いらしく、女主人は出たり入ったりと落ち着かない。
「・・そう言うのは、若いうちにやっておかないとな」。ビーパル野郎が言った。
「若いうちは気がつかないんだ。日に日に自分が歳を取ってるってことが」
「そうなんですか」
「ああ。・・出来ることは、出来るうちにやらないと」。そう言って男はストローを抜き、残りのコーヒーをグイッと飲み干す。カラッと音して、氷が口元に落ちた。
その時になって急に、この男は一体何者なのだろうと思った。年齢はキャプテンよりも上のようだが、格好がまったく遊び人である。バンダナの巻具合もただ者では無い。昨日東京から16号を来たと言うが、東京で何をしているのか見当もつかない。
表で客相手を終えた女主人が戻って来て、「泳いでいったら?」と男に言った。彼にはその気はないようで、陽射しが強すぎると言って断った。
やがて、次ぎの客数人が入って来るのを見たとき、キャプテンはそろそろ出発の時間だと想った。
別れ際に男が言った。
「あした、オレも千倉まで行くからさ。運がよけりゃ、何処かでまた会えるかもね」
キャプテンが次の激しい腹痛に襲われたのは、『岬』を出て、店の前から続くトンネルの迂回路を歩き、ノコギリ山の入り口付近にさしかかったときのことだった。『岬』で随分良くなった気がしたが、体調は戻ってくれなかったようである。
だが、そこからが長かった。トンネルの迂回路はやがて終わり、行き止まりの看板が現れた。前回はここで崖っぷちをズルズル滑り降りて行ったのだが、今はそんな気力は無い。どうすればいいのだろうと、地面の足跡や自転車のタイヤの跡を追って行くと、そのままトンネルの中へと通じていた。やはりここからは、地元の人でもトンネル内を行かなくては駄目らしい。
迷っている暇は無かった。いつまた腹痛が襲って来るかも知れないのだ。キャプテンは、持って来たあらゆる反射テープやライト類を身につけると、覚悟を決め、トンネルへと向かった。
トンネルは地獄への入り口のようだった。恐ろしい轟音が反響し、排気ガスの嫌な風が絶えず吹きつける。ドライバーはまさか人間が歩いているとは想わず、ほとんどの車が、キャプテンを発見しては急ハンドルで避ける、と言った挙動を見せた。
長い暗闇がようやく終わると、緊張がほどけるのを見計らうように、何度目かの腹痛が襲って来た。今度はいけないようである。あぶら汗が頬を伝う。近くに元名海水浴場があると言う看板を見つけ、そこのトイレを借りることにした。
トイレから出ると、精も根も尽き果てていた。すでにブレードを履く意欲は無く、ここから16km先の、大房岬のキャンプ場はあまりに遠い場所だった。
時計は午後3時を回っていた。『岬』を歩き始めてから約一時間がたとうとしている。ふと気がつくと、二年前泊まった、食事の豪華な民宿の前に来ていた。空いていたら泊まってしまおうかと想ったが、玄関の前は人でごった返していた。にぎやかさがうっとうしく、そのまま通り過ぎる。
もう少し閑散とした宿があれば、と歩いていると、白いペンション風の民宿と、廃屋になった民宿とが見つかった。もちろん廃屋に泊まるほど物好きでは無いが、ペンション風も気が重い。さらに30分ほど歩くと、丁度手頃な民宿が見つかり、そこの扉を叩いた。
その夜解ったことは、あの民宿の人だかりにはそれなりの理由が有ったと言うこと。つまり他の宿と比べて、かなり豪勢な海の料理を出す宿のようなのである。二年前、新妻君と飛び込んだときも、かなりの料理が出たのにもかかわらず、一旦は食事の用意が出来ないからと断られたのは、『豪勢な料理』を売り物にしている自負からだったのかも知れない。
あの日、予約も無しに泊まれたのは、ラッキーだったのかもなあ、と今夜はこの宿のつましい夕食を食べ、十分に水分を取り、胃薬を飲んで横になった。
*
いつの間にか眠っていたらしい。『館山駅』のベンチには、涼しい風が吹いていた。なんだがとても気分が良かった。
後ろに停車中の列車には、一人二人と学生が乗り込んで発車時刻を待っている。ホームでは、父親と女の子が自販機のジュースを選んでいた。
「これから、どうするかだ」キャプテンはぼんやりと、次ぎの行動を考えていた。
本当なら、今夜は南房総の根本キャンプ場に泊まり、翌日の午後到着の予定だったが、この熱さに、すっかり気持ちが切れてしまったのだ。途中、励ましてくれた沢山の人々には申し訳無かったが、ここで身体を壊すと、ゴブリンズ鴨川キャンプのメンバーに迷惑をかけることになる。
しかし、いきなり朝からゴールの宿を訪れる訳にも行かず、とりあえず時間をつぶしながら、『保田駅』からここまで、内房線に乗ってやって来た。途中、岩井海岸の道路が見えると、やっぱり滑れば良かったかな、とも想うのだが、列車の冷房にさえ悪寒の走る身体では無茶と言うものだ。
とりあえず『館山』で降りて・・、いや、たまたま乗った列車が館山止まりだったのだが、駅のベンチに腰をおろし、次ぎの行動を考えている内に眠ってしまったらしい。それにしても、静かで気分のいい駅である。このまま1日、このベンチで過ごしてもいいと思ったくらいだが、そう言うわけにも行かない。
さて、次ぎをどうするか・・。観光して歩くのも面倒だった。海水浴もどうかと想うし、鴨川シーワールドに一日中いるのも情けない。よくよく考えて、けっきょく結論は一つしか出なかった。
「とりあえず、フラワーラインまで滑るか・・」
どうと言うことはない。ほかに時間をつぶす方法が見つからなかったのである。それによく考えたら、ここまでの約70kmは、ほんの序の口に過ぎない。風景がいよいよその醍醐味を見せるのは、この先の南房総フラワーラインからなのだ。あそこは一年中美しい花が咲いているはずだし、ブレード走行のエネルギー源が風景なら、そこではきっと、何か素晴しいことが起こるに違いないのだ。
そう言い聞かせると、さっそく駅を出て、駅前商店街を抜け、北条海岸まで歩いた。ここからブレード走行再開だ。
だが、これがまたいけなかった・・。この日の熱さも驚異的で、その炎天下を約4km、時間にして40分も滑っただろうか、ひどく気分が悪くなって来たのである。どうにもこれは最悪で、治まりそうにも無い。やっとのことで日蔭を見つけて、繁みの中に入り込んだのだ。ところが、座ったとたん急にムカムカして、食べた物を少し戻してしまった。心臓の鼓動もやたらドキドキと大きく、重苦しい。
これはちょっとやばい、と初めて命の危険を感じた。そしてちょうど路線バスが目の前を通り過ぎるのを見たとき、「助けてくれ・・」と、心底そう想った。
何とかバス停まで行こうと想ったが、身体を動かすと、すぐにまたムカムカしてしまう。どうしたらいいんだ? と想ったとき、『ホカロン』の反対、『ヒヤロン』が有ったのを想い出した。それを取り出して拳で叩き、液体が入っている袋を破いて薬品と混ぜ合わせると、化学変化を起こして氷のように冷たくなる。
とりあえずそれで額や首筋などをやみくもに冷やしてみた。するとうまい具合に、腹部でグルグルッと音がして、重苦しいものが下に降りて行ったのである。
「そうか、頭を冷やせばいいのか!」と気づき、あることがひらめいた。
キャプテンは少し楽になったところで起き上がると、釣り具屋を探して滑り始めた。氷を買い、頭を冷やしながら行こうと想ったのだ。間もなく小さな店を見つけ、一袋のブッカキ氷りを手に入れた。頭はもちろん、首筋の動脈に当てる。こうすれば、脳に送られる血液を冷やすことが出来るはずだ。
氷が解けて来れば、その冷水を飲んだり、背中に浴びせたりすればいいし、氷は口に入れてガリガリとかじって・・。このアイデアは効き目充分だった。次第にムカつきが治まり、手足に力が戻って来た。これなら、しばらくは何とか行けそうである。
そうやって一袋の氷だけを頼りに、起伏の多い海岸線を滑り抜いて、何とか南房総の西の先、『洲崎神社』までたどり着くことが出来た。道沿いの建物の陰で休んでいると、そこは偶然、二年前新妻君が、「想えば遠くへきたもんだ」を歌っていた場所だと気がついた。
ほとんど車通りの無い道路。ジリジリと太陽が照りつけ、その表面は、立ち上る熱気でゆらゆらと揺れていた。「氷りのおかげで随分よくなったけど、いつまたどうなるかもわからない。行ける内に行っておかなければ・・」
そう想って立ち上がった拍子に、落下した汗の滴が見る間に乾いて行くのが見えた。見上げると、目の前の『大山』の山頂付近には、一塊の積乱雲が、軽い雷鳴を響かせながら漂っていた。
今日は降られたくない。身体が濡れると、乗り物に乗るのが面倒になるからだ。もちろん傘は持っていなかった。このまま滑り続け、氷が溶け切ったところで、バスに乗ろうと考えていた矢先のこと。それまで空がもってくれたらよいのだが。
見渡したところ雲はそれだけで、あとは快晴の空だった。
キャプテンはブレードのバックルを締め直した。そして再び足に力を入れると、やや粗くなった路面を、一度、二度、蹴った。身体はもたつき、魂だけが先へ先へと進んで行くような気がした。
もうすぐだ。もうすぐ・・
ひと蹴りごとに、風は熱い空気の塊になった。
雷雲がゴロゴロと唸りを上げる。
ひと蹴りごとに、風は熱い空気の塊になった。
雷雲がゴロゴロと唸りを上げる。
無人のバス停を通りすぎると、真っすぐな道の先には、かげろうごしに深い海の群青が見えて来た。
あそこまで行けば良いのだろうか。それとも、あれは蜃気楼だろうか。
何処まで行ってもたどり着くことの無い、幻の100マイル地点。
どちらにしろ、氷が溶け切るまでの命だった。
何処まで行ってもたどり着くことの無い、幻の100マイル地点。
どちらにしろ、氷が溶け切るまでの命だった。
*
灼熱の路面を、一人のブレードランナーが滑って行ったはずだ。
『岬』からバイクで来た男は、そう言ってヘルメットを脱いだ。
どこまで行ったのだろう。南房総フラワーラインに咲いているはずの花は、夏の日照りに全て枯れ果てていた。
『岬』からバイクで来た男は、そう言ってヘルメットを脱いだ。
どこまで行ったのだろう。南房総フラワーラインに咲いているはずの花は、夏の日照りに全て枯れ果てていた。
本当にあいつは、この道を来たのだろうか。
海辺にいた数人の釣り人達は、口々に、そんな奴は知らない、ただ八月一番の南風なら、確か、今しがたまで吹いていた、とだけ言った。
海辺にいた数人の釣り人達は、口々に、そんな奴は知らない、ただ八月一番の南風なら、確か、今しがたまで吹いていた、とだけ言った。
その話しを聞いてなお、男はあきらめ切れない様子で、再びバイクにまたがった。
しかし、その男には絶対に彼の姿を見つけ出すことは出来ないだろう。なぜなら、ちょうどその頃キャプテンは、白浜から千倉へ向かうバスの中で、気持ち良く、居眠りをしている最中だったからである。
★ブレード走行・幻のBOSO100マイル
コース :千葉-鴨川(白浜でリタイア)
日程 :1994年8月17日~19日
天気 :晴れ・雷雨
平均路面温度 :35℃
述べ走行距離 :96.6km
述べ走行時間 :16時間
平均速度 :6km
通算走行距離 :620.3km
<おしまい>
コメント
コメントを投稿