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「幻のBOSO100マイル .後編」1994

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千葉 - 鴨川・ブレード走行記(白浜でリアタイア)
      
目次


昼食の間に天気は完全に回復し、再び強烈な陽射しの中を進むことになった。太陽を浴びると、また気分が悪くなってくるような気がした。

少し不安を感じながらも進んで行くと、道の先に見覚えの有る信号が現れた。二年前キャプテンと新妻君の脇で起きた、あの二重追突事故の現場だ。確かにここに違いない。まじまじと周囲を眺め、事故なんて起きそうに無いのになあ、そう想った矢先のことだった。横を通り過ぎた車が、またいきなり急ブレーキをかけたのだ。

「おい!?」とあわてて振り返ったが、幸い事故にはならなかった。またしてもブレード・ランナーが珍しくて前方不注意になったのだろうか。それにしても・・、なんだか嫌なポイントだ。

『湊川』の橋を渡り、右に大きくカーブする山沿いの道をたどると、やがて東京湾浦賀水道の海が見えてくる。遥か向こう岸は三浦半島横須賀の港だ。この辺りからずっと海岸沿いを滑ることになる。キャプテンは、すっきりしない気分を抱えたままではあったが、海を眺めることで力を回復出来ると信じていた。

その道は人の気配が無く、車だけが風を切って行く。歩道は、ゴム状の継ぎ目を飛び越える以外気を使うことはなく、滑らかな路面が続いていた。海側は断崖になっていて、そのギリギリに、幾つかのレストランや小さなホテルなどが建ち並んでいた。

しかし車が数台止まっているだけで、賑わいと呼べるものは感じられなかった。シーズンの盛りにはもっと人が訪れるのだろうか。どの店も、捕れたて新鮮魚介類の料理が売り物らしく、そのことを謳った看板が立てられていた。

「知る人ぞ知る、穴場と言った店が有るのかも知れないな」そんなことをぼんやりと考えていた。

道路から見える崖下の砂浜では、数人の人々が海水浴を楽しんでいた。海の家も無い静かな浜辺は、さながらプライベート・ビーチと言った雰囲気である。そんな光景が何度か現れては消え、『金谷』の辺りまでは、比較的楽しみながら滑って来ることができた。

どのくらいたったのだろう。かなり疲れを感じたところで、丁度よく木々に覆われた細い脇道を見つけた。迷わず滑り込んで、荷物を降ろすことにする。

そこには、心地よい風が吹き抜けていた。道の両側に古い小さな家が建ち並び、遠く水平線が見えていた。そのまま下って行けば海岸に出られそうである。

休んでいると、お婆さんが一人と、職人らしき初老の男二人が、何事も無かったかのように通り過ぎて行った。

それからまた人影は無くなり、午後の風が吹き始めた。

地べたに座り込んだまま汗を拭いていると、裸足になった足元に、小石が一つ転がっていた。
「この石は、オレがここに来る何年も前から、そして立ち去ったあと何年も、同じようにここに転がったままなのだ・・」

見上げれば、空にはクッキリした雲が浮かんでいた。あの空も、もはや真夏のものでは無い。透きとおった違う季節のものだ。本当の夏は、もうずっと前に終わってしまった。夏とは、気温や暦とは関係無く、ある日突然、かき消すように終ってしまう、そう言うものなのだ。

休憩で少しは良くなると想ったが、滑り始めると、気分の悪さは逆にひどくなって来る気がした。だがそれが、暑さのせいなのか、それとも身体の変調によるものなのか、はっきりとはしなかった。

想うように足に力が入らず、ついブレード・ブーツが横倒しになってしまう。そのせいで足首の辺りが擦れ、ヒリヒリと痛み出している。さっきの休憩からほとんど距離を稼いではいないが、この先に見えるドライブインで、また休憩を取った方がいいと想った。午後1時、一番陽射しが強くなって来るころだ。

ドライブインまで滑り着くと、店は休みだった。ガランとした駐車場には、見渡した限り日陰はない。それでもブレードを脱ぎ、自動販売機で飲み物だけでも買おうと想った。

そうして、ウエストポーチから財布を取り出そうとしたときだった。いきなり腹が痛み出したのである。それも、立っていられないような激痛だった。しばらく自販機にしがみついて我慢していたが、今度は、にわかにトイレに行きたくなってしまった。しかもただならぬ気配である。

これはいかんと想ったが、ドライブインの周囲にトイレは見当たらない。どうしようかと迷っているうちにも、事態はますます切迫して来る。慌てて辺りを見回す。怒涛のような便意が襲って来て、まずい! これはついに炎天下での野糞かあっ! と頭の中で叫んだとき、真っすぐな道のはるか向こうに、小さく四角いボックスが有るのを発見したのだった。

頼む、仮設トイレであってくれ・・

100m、いや150mはあるだろうか。トイレと言う保証はまったく無かったが、とっさにブレードを履き、荷物を背負うと、必死のダッシュを試みた。滑り出すとやや便意を忘れるようであった。

今のうちに!と、そのボックス目がけて恐ろしい勢いで近づいて行くと、幸運にも、仮設トイレに間違いないことが判明した。どうやら工事用資材置き場に建てられたものらしい。少し離れた所に、詰め所のようなプレハブが有ったが、中には誰もいない。

とにかく何であれ、貸してもらうしかない。もう誰にも止めることは出来ないのだ。トイレのノブをつかんだ時には、もはや、のっぴきならぬ状況と化していた。ブレードを脱いでいる時間は無い。このまま飛びこませてもらいます!


風が熱い・・

ノコギリ山は相変わらずキザキザの山頂を見せていた。キャプテンは放心したように滑っている。

先ほど物凄く熱いトイレの中で用を足し、想像以上に体力を消耗してしまったようだ。喉は渇き切っていたが、腹具合の悪さが水分を取ることをためらわせた。それでも、汗はとめど無く流れ続けている。

『喫茶・岬』に着くまで我慢し、そこでアイス・コーヒーでも飲もうと想った。あそこならトイレも有るし、休んで行ける。そう考えて、よし、と想ってからが長かった。

前回走行時の記憶は、各ポイントごとの断片的なもので、ノコギリ山の頂きが見えてから『岬』まではほんの30分ぐらいのように想っていた。しかしそれは間違いで、実際に滑ってみると、1時間過ぎてもまだ着く気配が無かった。やがて、トンネルが一つ二つと現れ始め、ああそうだった、その前にトンネルが有ったのだ、と想い知らされ、改めて、相当な距離が有ると言う記憶が蘇って来たのである。

一説に、旅は一度通った道をなぞってはいけない、と言う言い方があるが、それは正しいのかも知れない。疲れ切った身体をおし進めてくれるのは、次々に現れてくる新しい風景なのだ。今回、次第に前進する意欲が失せて来るのは、35℃以上の熱さと、13kgの荷物の重さと、36歳と言う年齢のためだけではないらしい。未体験の道と、経験済みの道とでは天と地ほどの差があるようだ。

明鐘岬への入り口に着いたのは午後2時を過ぎたころだった。そこには127号の長いトンネルを迂回する道があるが、迂回路は舗装されておらず、ブレードを脱いで歩かねばならない。

観光客用の駐車場で荷物を降ろしていると、小さな女の子が、キャプテンの姿をのぞいて逃げて行った。その子の行く先に目をやると、父親が、車に海水浴の道具を積めこんでいた。その横にも車が数台止まっていて、どうも、前回来たときより賑わっているように見えた。

ブレードを脱いでアウトドアサンダルを履き、のたのたと歩き始める。歩くと言う行為が、もどかしいほどの速度だと想えて来る。

駐車場を抜け、道なりに進むと、眼下に海が見えて来る。そうして、左手には例の店、『岬』が現れる。喫茶室とは言え、木造の小屋のような建物である。壁をペンキで塗り替えたらしく、妙に色鮮やかになっていた。

入り口の前に回り込むと、二人の女性が立ち、海を眺めていた。その一人の方は、確かに見覚えの有る「岬の女主人」に違いなかった。もう一人は解らない。もっと若い、30代と思しき女性である。

女主人はキャプテンを見つけると、ニコッと笑って、
「どうぞ、休んでってください」
と言った。しかし、二年前のことを想い出したと言うわけではないようだ。

その声に促されるまま店に入ると、狭い室内には、数人の釣り人らしき客が休んでいた。その内の何人かは、キャプテンを見て、切っかけを見つけたかのように立ち上がり、無人のカウンターに金を払い始めた。

それらの客達が出て行くと、店には、頭にバンダナを巻き無精髭を生やした中年ビーパル野郎と、ヤンキースのキャプを後ろ前に被った若い男が残った。ビーパル野郎もそろそろ出掛けるつもりなのか、煙草とライターをポケットにしまおうとしている。

キャプテンはビーパル野郎のハス向かいに座ることにした。店の内装はほとんど変わっていないように想われた。海側の窓に備え付けられた望遠鏡もそのままである。以前同様、開け放した窓からは絶えず風が吹き込み、熱さを感じない。ずっと休んでいたくなるほど気持ち良かった。

やがて、女主人ともう一人の女性が店の中に戻り、飲み干されたグラス類を片付け始めた。アイスコーヒーと決めていたが、いちおうメニューを見るふりをして注文を待っていると、突然ビーパル野郎が大きな声を出した。

「あれえ?! キミさあ、自転車?」。男はキャプテンに向かって、疑うような口調でそう言った。「あっ?・・いえ、自転車じゃなくて、ローラー・ブレード・・。ローラー・スケートみたいなもんですけど」

「ローラー・スケート!?」
「ええ、タイヤが一列に並んでるやつ」。そう言うと、男は少し間を置いて、「それじゃあさ、ひょっとして、きのう16号を滑ってなかった?」と質問してきた。

「はあ・・。確かに、きのうは16号を滑ってましたけど?」
「ホント?! じゃあキミだ!」。男は驚いた様子で言った。「やっぱり、オレがきのう見たのはキミだったんだ。そうそう、そのハデなザックだったもんなあ」そして、なるほどと言うように頷いた。

「そうなんですか・・」。キャプテンは呆気に取られていた。少しの間言葉が見つからず黙っていると、店の奥から女主人が水を運んで来た。

「ローラー・スケートって?。あら?、もしかして、初めてじゃないわよねえ?」ようやく彼女も気づいたらしい。

「はい、そうなんです。二年前に一度、二人連れで」
「そうそう、ここに来たわよね? そうだわ、へえ・・」。そう言いながら目の前にコップを置いた。

「何にする?」
「あの、アイス・コーヒーを」キャプテンがそう言うと、男も、
「せっちゃん、オレにもアイス・コーヒー作ってくれる?」と言った。

女主人は『せっちゃん』と言うらしい。せっちゃんだから、セツコとかセイコとか、そんな名前なんだろう。それに男の方は、口ぶりからしてこの店の常連のようである。彼はキャプテンに興味を持ったらしく、出て行くどころか、新しいアイス・コーヒーが来るのを待って、じっくり腰をすえて話そうじゃないかと言う意気込みある。すでに飲み終えていたグラスを自分で片付け、テーブルに染みた水を拭いていた。

「どこで見たの?」女主人がアイス・コーヒーを運びながら言った。
「ああ、あれはねえ、たしか、五井の辺りだったかな?。この炎天下で何やってんだこいつ!って想ってさ」

男はオートバイで東京から16号を走って来るところだったと言う。その途上でキャプテンを見かけたのだ。

「まさか、ここで会うとはねえ」。彼はこの偶然を楽しんでいるようだった。そのあと、キャプテンは二年前の鴨川走行のことを話し、そのとき、ここの妙な客に店に引き込まれてしまったことなどを話した。

「あのときも熱かったけど、それなりに気持ち良かったんです。でも、今年はきついですよ」
 そうキャプテンが言うと、
「そりゃそうだ。今年の夏はバイクだってイヤになるくらいだぜ」
 と答えてから、少し顔をしかめて「もう、やめた方がいいんじゃない?」とふざけて言った。

「じつは・・、オレも、そう想ってたところなんですよ」
キャプテンも笑いながら答えた。しかし、冗談のつもりが、本当に力が抜けて行くような気がした。

「どうして、また、こんなことをしてしまったのだろう」
そんな想いが湧き上がって来る。

極度の疲労と、灼熱と、身体の変調。何の利益も無く、出発前のウキウキした感じも消えている。残っているのは、途中であきらめたくないと言う気持ちだけ。

もし男に「なぜ、こんなことをするんだ?」と尋ねられたら、どんな風に答えていただろう。
『自分の夢を実現させる快感』
いつものように、さっそうと答えていただろうか。それとも「なぜだか、さっぱりわからない」と、つぶやいていたのか・・

ひとしきり話しを終えると、ビーパル野郎は、望遠鏡が備えられた窓に目をやった。その向こうに銀色に輝く海が見えていた。今日は釣り客が多いらしく、女主人は出たり入ったりと落ち着かない。

「・・そう言うのは、若いうちにやっておかないとな」。ビーパル野郎が言った。
「若いうちは気がつかないんだ。日に日に自分が歳を取ってるってことが」
「そうなんですか」
「ああ。・・出来ることは、出来るうちにやらないと」。そう言って男はストローを抜き、残りのコーヒーをグイッと飲み干す。カラッと音して、氷が口元に落ちた。

その時になって急に、この男は一体何者なのだろうと思った。年齢はキャプテンよりも上のようだが、格好がまったく遊び人である。バンダナの巻具合もただ者では無い。昨日東京から16号を来たと言うが、東京で何をしているのか見当もつかない。

表で客相手を終えた女主人が戻って来て、「泳いでいったら?」と男に言った。彼にはその気はないようで、陽射しが強すぎると言って断った。

やがて、次ぎの客数人が入って来るのを見たとき、キャプテンはそろそろ出発の時間だと想った。
 
別れ際に男が言った。
「あした、オレも千倉まで行くからさ。運がよけりゃ、何処かでまた会えるかもね」



キャプテンが次の激しい腹痛に襲われたのは、『岬』を出て、店の前から続くトンネルの迂回路を歩き、ノコギリ山の入り口付近にさしかかったときのことだった。『岬』で随分良くなった気がしたが、体調は戻ってくれなかったようである。

だが、そこからが長かった。トンネルの迂回路はやがて終わり、行き止まりの看板が現れた。前回はここで崖っぷちをズルズル滑り降りて行ったのだが、今はそんな気力は無い。どうすればいいのだろうと、地面の足跡や自転車のタイヤの跡を追って行くと、そのままトンネルの中へと通じていた。やはりここからは、地元の人でもトンネル内を行かなくては駄目らしい。

迷っている暇は無かった。いつまた腹痛が襲って来るかも知れないのだ。キャプテンは、持って来たあらゆる反射テープやライト類を身につけると、覚悟を決め、トンネルへと向かった。

トンネルは地獄への入り口のようだった。恐ろしい轟音が反響し、排気ガスの嫌な風が絶えず吹きつける。ドライバーはまさか人間が歩いているとは想わず、ほとんどの車が、キャプテンを発見しては急ハンドルで避ける、と言った挙動を見せた。

長い暗闇がようやく終わると、緊張がほどけるのを見計らうように、何度目かの腹痛が襲って来た。今度はいけないようである。あぶら汗が頬を伝う。近くに元名海水浴場があると言う看板を見つけ、そこのトイレを借りることにした。

トイレから出ると、精も根も尽き果てていた。すでにブレードを履く意欲は無く、ここから16km先の、大房岬のキャンプ場はあまりに遠い場所だった。

時計は午後3時を回っていた。『岬』を歩き始めてから約一時間がたとうとしている。ふと気がつくと、二年前泊まった、食事の豪華な民宿の前に来ていた。空いていたら泊まってしまおうかと想ったが、玄関の前は人でごった返していた。にぎやかさがうっとうしく、そのまま通り過ぎる。

もう少し閑散とした宿があれば、と歩いていると、白いペンション風の民宿と、廃屋になった民宿とが見つかった。もちろん廃屋に泊まるほど物好きでは無いが、ペンション風も気が重い。さらに30分ほど歩くと、丁度手頃な民宿が見つかり、そこの扉を叩いた。

その夜解ったことは、あの民宿の人だかりにはそれなりの理由が有ったと言うこと。つまり他の宿と比べて、かなり豪勢な海の料理を出す宿のようなのである。二年前、新妻君と飛び込んだときも、かなりの料理が出たのにもかかわらず、一旦は食事の用意が出来ないからと断られたのは、『豪勢な料理』を売り物にしている自負からだったのかも知れない。

あの日、予約も無しに泊まれたのは、ラッキーだったのかもなあ、と今夜はこの宿のつましい夕食を食べ、十分に水分を取り、胃薬を飲んで横になった。


いつの間にか眠っていたらしい。『館山駅』のベンチには、涼しい風が吹いていた。なんだがとても気分が良かった。

後ろに停車中の列車には、一人二人と学生が乗り込んで発車時刻を待っている。ホームでは、父親と女の子が自販機のジュースを選んでいた。

「これから、どうするかだ」キャプテンはぼんやりと、次ぎの行動を考えていた。

本当なら、今夜は南房総の根本キャンプ場に泊まり、翌日の午後到着の予定だったが、この熱さに、すっかり気持ちが切れてしまったのだ。途中、励ましてくれた沢山の人々には申し訳無かったが、ここで身体を壊すと、ゴブリンズ鴨川キャンプのメンバーに迷惑をかけることになる。

しかし、いきなり朝からゴールの宿を訪れる訳にも行かず、とりあえず時間をつぶしながら、『保田駅』からここまで、内房線に乗ってやって来た。途中、岩井海岸の道路が見えると、やっぱり滑れば良かったかな、とも想うのだが、列車の冷房にさえ悪寒の走る身体では無茶と言うものだ。

とりあえず『館山』で降りて・・、いや、たまたま乗った列車が館山止まりだったのだが、駅のベンチに腰をおろし、次ぎの行動を考えている内に眠ってしまったらしい。それにしても、静かで気分のいい駅である。このまま1日、このベンチで過ごしてもいいと思ったくらいだが、そう言うわけにも行かない。

さて、次ぎをどうするか・・。観光して歩くのも面倒だった。海水浴もどうかと想うし、鴨川シーワールドに一日中いるのも情けない。よくよく考えて、けっきょく結論は一つしか出なかった。

「とりあえず、フラワーラインまで滑るか・・」

どうと言うことはない。ほかに時間をつぶす方法が見つからなかったのである。それによく考えたら、ここまでの約70kmは、ほんの序の口に過ぎない。風景がいよいよその醍醐味を見せるのは、この先の南房総フラワーラインからなのだ。あそこは一年中美しい花が咲いているはずだし、ブレード走行のエネルギー源が風景なら、そこではきっと、何か素晴しいことが起こるに違いないのだ。

そう言い聞かせると、さっそく駅を出て、駅前商店街を抜け、北条海岸まで歩いた。ここからブレード走行再開だ。

だが、これがまたいけなかった・・。この日の熱さも驚異的で、その炎天下を約4km、時間にして40分も滑っただろうか、ひどく気分が悪くなって来たのである。どうにもこれは最悪で、治まりそうにも無い。やっとのことで日蔭を見つけて、繁みの中に入り込んだのだ。ところが、座ったとたん急にムカムカして、食べた物を少し戻してしまった。心臓の鼓動もやたらドキドキと大きく、重苦しい。

これはちょっとやばい、と初めて命の危険を感じた。そしてちょうど路線バスが目の前を通り過ぎるのを見たとき、「助けてくれ・・」と、心底そう想った。

何とかバス停まで行こうと想ったが、身体を動かすと、すぐにまたムカムカしてしまう。どうしたらいいんだ? と想ったとき、『ホカロン』の反対、『ヒヤロン』が有ったのを想い出した。それを取り出して拳で叩き、液体が入っている袋を破いて薬品と混ぜ合わせると、化学変化を起こして氷のように冷たくなる。

とりあえずそれで額や首筋などをやみくもに冷やしてみた。するとうまい具合に、腹部でグルグルッと音がして、重苦しいものが下に降りて行ったのである。

「そうか、頭を冷やせばいいのか!」と気づき、あることがひらめいた。

キャプテンは少し楽になったところで起き上がると、釣り具屋を探して滑り始めた。氷を買い、頭を冷やしながら行こうと想ったのだ。間もなく小さな店を見つけ、一袋のブッカキ氷りを手に入れた。頭はもちろん、首筋の動脈に当てる。こうすれば、脳に送られる血液を冷やすことが出来るはずだ。

氷が解けて来れば、その冷水を飲んだり、背中に浴びせたりすればいいし、氷は口に入れてガリガリとかじって・・。このアイデアは効き目充分だった。次第にムカつきが治まり、手足に力が戻って来た。これなら、しばらくは何とか行けそうである。

そうやって一袋の氷だけを頼りに、起伏の多い海岸線を滑り抜いて、何とか南房総の西の先、『洲崎神社』までたどり着くことが出来た。道沿いの建物の陰で休んでいると、そこは偶然、二年前新妻君が、「想えば遠くへきたもんだ」を歌っていた場所だと気がついた。

ほとんど車通りの無い道路。ジリジリと太陽が照りつけ、その表面は、立ち上る熱気でゆらゆらと揺れていた。「氷りのおかげで随分よくなったけど、いつまたどうなるかもわからない。行ける内に行っておかなければ・・」

そう想って立ち上がった拍子に、落下した汗の滴が見る間に乾いて行くのが見えた。見上げると、目の前の『大山』の山頂付近には、一塊の積乱雲が、軽い雷鳴を響かせながら漂っていた。

今日は降られたくない。身体が濡れると、乗り物に乗るのが面倒になるからだ。もちろん傘は持っていなかった。このまま滑り続け、氷が溶け切ったところで、バスに乗ろうと考えていた矢先のこと。それまで空がもってくれたらよいのだが。

見渡したところ雲はそれだけで、あとは快晴の空だった。

キャプテンはブレードのバックルを締め直した。そして再び足に力を入れると、やや粗くなった路面を、一度、二度、蹴った。身体はもたつき、魂だけが先へ先へと進んで行くような気がした。

もうすぐだ。もうすぐ・・
ひと蹴りごとに、風は熱い空気の塊になった。
雷雲がゴロゴロと唸りを上げる。

無人のバス停を通りすぎると、真っすぐな道の先には、かげろうごしに深い海の群青が見えて来た。

あそこまで行けば良いのだろうか。それとも、あれは蜃気楼だろうか。
何処まで行ってもたどり着くことの無い、幻の100マイル地点。
どちらにしろ、氷が溶け切るまでの命だった。


灼熱の路面を、一人のブレードランナーが滑って行ったはずだ。
『岬』からバイクで来た男は、そう言ってヘルメットを脱いだ。
どこまで行ったのだろう。南房総フラワーラインに咲いているはずの花は、夏の日照りに全て枯れ果てていた。

本当にあいつは、この道を来たのだろうか。
海辺にいた数人の釣り人達は、口々に、そんな奴は知らない、ただ八月一番の南風なら、確か、今しがたまで吹いていた、とだけ言った。
その話しを聞いてなお、男はあきらめ切れない様子で、再びバイクにまたがった。

しかし、その男には絶対に彼の姿を見つけ出すことは出来ないだろう。なぜなら、ちょうどその頃キャプテンは、白浜から千倉へ向かうバスの中で、気持ち良く、居眠りをしている最中だったからである。
 
 
 
 
 ★ブレード走行・幻のBOSO100マイル
 コース     :千葉-鴨川(白浜でリタイア)
 日程      :1994年8月17日~19日
 天気      :晴れ・雷雨
 平均路面温度  :35℃
 述べ走行距離  :96.6km
 述べ走行時間  :16時間
 平均速度    :6km
 通算走行距離  :620.3km




<おしまい>





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 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5...

「茨城46億年後の一期一会 .2」1996

1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来...

「霞ヶ浦自転車道」2009

< 霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009 > ★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。 当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。 が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。 ★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・ 決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。 けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。 隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。 そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。 そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲...

「茨城46億年後の一期一会 .5」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・5・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記5 3日目前半> 8月2日・金曜日(3日目)「民宿大竹から鹿島市・グリル鹿島まで」 ◆ 呪いの見送り ◆ 荷物を担ぎ、民宿大竹の駐車場まで出て行くと、女将さん、その娘、お祖母さんが次々に姿を現した。ブレードの物珍しさゆえの見送りと言うところである。 新妻君と森広君は、すみっこの車の陰でブレードを履き始めたが、キャプテンはギャラリーへのサービスもかねて、ど真ん中で準備することにした。そうしていると、ほどなく女の子が駆けよって来た。 「それで、すべってくの?」 その子はそう尋ねた。それに、ああ、そうだよと愛想良く笑い、 「ここからねえ、ずーっと遠くまですべってくんだよう」 と、キャプテンは子供用の声で答えたのだ。ところがである。 「ウソだね!」 予想に反してカワイくない返事がかえって来たではないか。 「ほんとだよ、ほんとほんと」ちょっとあせった。だが、 「ウソだねー!」と、女の子はなおも続ける。 「ほんとだってば」 「じゃあ、東京からすべってきたの?」 「そうじゃなくて、東京から電車で来て・・」 「ああっ!。ほらー、電車なんだってー!」 その子はキャプテンの言葉尻を取って、そーら見たことかとばかり、女将さんを振り返って騒ぎ出した。 「ちがうちがう、電車で遠くまで行って、そこから滑って来たんだよ。わかる?」 「ええー?」 そこでいったんはおとなしくなったが、声は半信半疑のままである。さらにその子の攻撃は続いた。 「雨がふるよ!」ふてくされたような言い方だった。「雨がふってくるよ!」 ・・ったく、どうなってんだ? 「そうかなあ?。大丈夫だと想うよ」 「ふるよ!。てんきよほう見てみな!」 これはもう、呪いに近いものが有る。でも、確かに雨が降りそうな空だった。気温も低く、温度計を見ると21℃を示していた。寒いくらいだ。 ブレード走行は、舗装道路が無ければ前進出来ないわけで、アウトドアと呼ぶにはあまりに半端なスポーツだったが、それでも自然相手であることには違いない。雨が降ったら、それを甘んじて受け入れるしかないのである。さて、どこまでもつか・・ 女の子はいつの間にかキャプテンから離れ、他の二人のところへ駆けよって行った。その後ろ姿を見ながら「世の中には、いろんな子がいるんだなあ」と想った。 年齢の...

「筑波霞ヶ浦 りんりんロード」2008

<りんりんロード「岩瀬 - 土浦 40.1km」2008> ブレード隊の隊長?高橋の50歳引退記念走行に集まったのは、かつての古い仲間たちだった。初のブレード隊当時は高橋32歳、仲間達はみな20歳そこそこで、若さの赴くままに滑り回った彼らだったが、それぞれに歳を取っていた。果たして昔のように40.1kmを滑り切れるのか。そして男たちの旅は、本当にここで終わってしまうのか? ブレード隊の高橋隊長が50歳を迎え、引退記念走行ということで、日本全国に散らばった?隊員たちを呼び集め、「最後のブレード走行」が行われました。集合はJR水戸線「岩瀬駅」。コースは土浦までの「りんりんロード40.1km」です。 ブレード隊が揃うのは1996年以来じつに12年ぶり、皆それぞれに歳を取っていました。1996年時の旅は「茨城・高萩 〜 千葉・犬吠埼」の約144km。当時は一般道を果敢に滑っていたのですが、高齢化と共に法律スレスレの無茶も出来なくなり、今回はおとなしく?サイクリングロードでの旅となりました。 ・・とは言いながら、最後のつもりが、滑り終えた達成感がかえって隊員たちの闘争心を刺激したらしく、早くも次回「高齢ブレード隊」の可能性で盛り上がったのでした。  JR水戸線「岩瀬駅」駅前。茨城のりんりんロードを滑ります スタート!。のどかでキレイな田園風景 菜の花ロード。5km経過、カメラポイントです いい天気!。快調に滑ってます! うねうね? 波打ちロードゾーン。遊び心だそうです 18k地点、暑いので日陰で休憩。昔より疲労度合いが大きい 午後の滑走。昼食を終え休養十分、再び滑り始めます 八重桜が植えられていた。疲労のためみな無口・・ 最後の10km。西日を受けてラストスパート! 霞ヶ浦近くでゴール!。あとは風呂とビールです! ニイツマ家で宿泊、朝食のあとの一服   

「茨城46億年後の一期一会 .6」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記6 3日目後半> 8月2日・金曜日(3日目)「グリル鹿島から波崎町・割烹旅館かわたけまで」 ◆ 今頃ソルボセインかよ・・ ◆ 出掛けに、鹿嶋市パンフレットの地図でスポーツ用品店を見つけていた新妻君が、「ソルボセインの中敷きを買う」と言い出した。なんと、彼はまだソルボセインを使っていなかったのである。 『ソルボセイン』とは、10m以上の高さから生玉子を落としても割れない、と言うほどの衝撃吸収材だが、同様の『αゲル』などと比べると「コシ」が強いので、靴底に入れてもフニャフニャした違和感が無く、自然な使い心地の代物なのである。 これをブレード・ブーツの底に敷くと、アスファルトからの振動を吸収して足を保護でき、疲労もかなり防げる。したがって、キャプテンは以前から、ブレード走行を始める者には『ソルボセイン』を使え、と言い続けて来た。 当然、新妻君もそれを耳にしていたはずで、とっくに使用しているものと想い込んでいたのだが、彼は「そんなことより、ブレードは滑ってなんぼ」とばかり、堅い中敷きのままで間に合わせていたのである。確かに、他人のアドバイスより自らの感覚を信じる、と言うやり方は正しいが、それは継続することにより養われるもので、一発屋には馴染まない。 グリル鹿島から町外れまで滑って行き、『スポーツ101』と言う、この辺りにしては大きめのスポーツ用品店を見つけた。新妻君はそこで『ソルボ中敷き』を購入、店の中で自分の足の大きさにカットして出て来た。 「なんだこれは!? 振動が無い!」 さっそくブレードの底に敷いて滑り始めたその直後の一声である。絶大なるソルボ効果に感動したのだろうか。もちろん一度痛めた足が治ることは無いが、このさき数時間の延命効果としては充分役に立つ。それにしても、最初から使っていれば・・ スポーツ101から離れてしばらくの間は、新妻君に応急処置が施されたことで、少し気を楽にして滑ることが出来た。すでに国道51号からは離れ、124号を進んでいた。 道沿いには、まばらだが、店やレストラン、町工場、中古車ディーラーなどが並んでいた。そこから幾つかの林をくぐり抜け、緩やかな坂道を下り、小ぎれいな民家の立ち並ぶ通りに差しかかった。 そこをさらに進んで、信号待ちで渋滞している交差点が見えて...

「湘南の海、エンドー苦難の道」1993

< 横須賀 - 茅ヶ崎・ブレード走行記 > 1993年。ゴブリンズ・ブレード隊、キャプテン高橋と遠藤忠隊員は、10月23日と24日の二日間に渡り、三浦半島の横須賀から茅ヶ崎まで、約75kmを無事完走したと発表。この完走によりキャプテン高橋の通算走行距離は359.4kmとなった。                    目次 うれしはずかし出発の時 三浦海岸! これを見に来た 遠藤殺しの坂が待っていた 史上最大のピンチである?! ついにブレード隊、初の野宿なのか・・? 二日目、最高の出発 湘南・超観光ルートを行く 日曜の午後の終わり ◇ うれしはずかし出発の時   ◇ 「だめだ、間に合わん!」 時計を見ると、7時55分。東急東横線の急行はたった今、 渋谷を出発したばかりだった。約束は横浜駅の改札に8時だが、この分では8時半ごろになってしまうだろう。昨晩、荷物の用意をしている内に夜が更けてしまい、キャプテンは今朝少し寝過ごした。しかし興奮のあまり眠れなくなった訳では無い。もう子供ではないのだ。 ドア際の窓から空を覗くと、雲は多めだが気持ちの良い秋晴れ。10月23日(土)、この週末の天気に問題は無い。ただ、なぜか寒さがとても心配だった。必要以上に気にしてしまったのは、第三次ブレード隊『富士五湖周回走行10.24』からちょうど1年、あの富士山麓の標高の高さと、降りしきる雨の記憶のせいに違いなかった。 予想した通り8時30分に横浜駅に着いた。改札を出ると、憮然とした遠藤隊員の姿が有った。「悪い、悪い。寝過ごした」仕方なくキャプテンは笑ってごまかすのだった。 日頃、野球の試合などでは、周囲から時間に厳格だと思い込まれているキャプテンだが、何を隠そう、中学・高校の6年間、常に遅刻回数・学年トップを誇って来たクセ者なのである。その頃の1年間の平均遅刻数は約70個。これは野球に例えれば『盗塁王』に匹敵するのはないかと一部ではささやかれているが、さて、どんなもんだろう・・ 二人はそこから京浜急行に乗り換え、横須賀中央駅へと向かった。気温24.3度、まずまずの走行日和だ。このくらいの陽射しが有れば、走っている内に体温の上昇でちょうど良くなって来るはずである。間近に迫った出発に備えて色々と考えは及ぶ。もう一人の隊員、新妻氏は、なんだかんだと急用が出来て、今日は来れなくなった。 横須賀...