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「幻のBOSO100マイル .後編」1994

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千葉 - 鴨川・ブレード走行記(白浜でリアタイア)
      
目次


昼食の間に天気は完全に回復し、再び強烈な陽射しの中を進むことになった。太陽を浴びると、また気分が悪くなってくるような気がした。

少し不安を感じながらも進んで行くと、道の先に見覚えの有る信号が現れた。二年前キャプテンと新妻君の脇で起きた、あの二重追突事故の現場だ。確かにここに違いない。まじまじと周囲を眺め、事故なんて起きそうに無いのになあ、そう想った矢先のことだった。横を通り過ぎた車が、またいきなり急ブレーキをかけたのだ。

「おい!?」とあわてて振り返ったが、幸い事故にはならなかった。またしてもブレード・ランナーが珍しくて前方不注意になったのだろうか。それにしても・・、なんだか嫌なポイントだ。

『湊川』の橋を渡り、右に大きくカーブする山沿いの道をたどると、やがて東京湾浦賀水道の海が見えてくる。遥か向こう岸は三浦半島横須賀の港だ。この辺りからずっと海岸沿いを滑ることになる。キャプテンは、すっきりしない気分を抱えたままではあったが、海を眺めることで力を回復出来ると信じていた。

その道は人の気配が無く、車だけが風を切って行く。歩道は、ゴム状の継ぎ目を飛び越える以外気を使うことはなく、滑らかな路面が続いていた。海側は断崖になっていて、そのギリギリに、幾つかのレストランや小さなホテルなどが建ち並んでいた。

しかし車が数台止まっているだけで、賑わいと呼べるものは感じられなかった。シーズンの盛りにはもっと人が訪れるのだろうか。どの店も、捕れたて新鮮魚介類の料理が売り物らしく、そのことを謳った看板が立てられていた。

「知る人ぞ知る、穴場と言った店が有るのかも知れないな」そんなことをぼんやりと考えていた。

道路から見える崖下の砂浜では、数人の人々が海水浴を楽しんでいた。海の家も無い静かな浜辺は、さながらプライベート・ビーチと言った雰囲気である。そんな光景が何度か現れては消え、『金谷』の辺りまでは、比較的楽しみながら滑って来ることができた。

どのくらいたったのだろう。かなり疲れを感じたところで、丁度よく木々に覆われた細い脇道を見つけた。迷わず滑り込んで、荷物を降ろすことにする。

そこには、心地よい風が吹き抜けていた。道の両側に古い小さな家が建ち並び、遠く水平線が見えていた。そのまま下って行けば海岸に出られそうである。

休んでいると、お婆さんが一人と、職人らしき初老の男二人が、何事も無かったかのように通り過ぎて行った。

それからまた人影は無くなり、午後の風が吹き始めた。

地べたに座り込んだまま汗を拭いていると、裸足になった足元に、小石が一つ転がっていた。
「この石は、オレがここに来る何年も前から、そして立ち去ったあと何年も、同じようにここに転がったままなのだ・・」

見上げれば、空にはクッキリした雲が浮かんでいた。あの空も、もはや真夏のものでは無い。透きとおった違う季節のものだ。本当の夏は、もうずっと前に終わってしまった。夏とは、気温や暦とは関係無く、ある日突然、かき消すように終ってしまう、そう言うものなのだ。

休憩で少しは良くなると想ったが、滑り始めると、気分の悪さは逆にひどくなって来る気がした。だがそれが、暑さのせいなのか、それとも身体の変調によるものなのか、はっきりとはしなかった。

想うように足に力が入らず、ついブレード・ブーツが横倒しになってしまう。そのせいで足首の辺りが擦れ、ヒリヒリと痛み出している。さっきの休憩からほとんど距離を稼いではいないが、この先に見えるドライブインで、また休憩を取った方がいいと想った。午後1時、一番陽射しが強くなって来るころだ。

ドライブインまで滑り着くと、店は休みだった。ガランとした駐車場には、見渡した限り日陰はない。それでもブレードを脱ぎ、自動販売機で飲み物だけでも買おうと想った。

そうして、ウエストポーチから財布を取り出そうとしたときだった。いきなり腹が痛み出したのである。それも、立っていられないような激痛だった。しばらく自販機にしがみついて我慢していたが、今度は、にわかにトイレに行きたくなってしまった。しかもただならぬ気配である。

これはいかんと想ったが、ドライブインの周囲にトイレは見当たらない。どうしようかと迷っているうちにも、事態はますます切迫して来る。慌てて辺りを見回す。怒涛のような便意が襲って来て、まずい! これはついに炎天下での野糞かあっ! と頭の中で叫んだとき、真っすぐな道のはるか向こうに、小さく四角いボックスが有るのを発見したのだった。

頼む、仮設トイレであってくれ・・

100m、いや150mはあるだろうか。トイレと言う保証はまったく無かったが、とっさにブレードを履き、荷物を背負うと、必死のダッシュを試みた。滑り出すとやや便意を忘れるようであった。

今のうちに!と、そのボックス目がけて恐ろしい勢いで近づいて行くと、幸運にも、仮設トイレに間違いないことが判明した。どうやら工事用資材置き場に建てられたものらしい。少し離れた所に、詰め所のようなプレハブが有ったが、中には誰もいない。

とにかく何であれ、貸してもらうしかない。もう誰にも止めることは出来ないのだ。トイレのノブをつかんだ時には、もはや、のっぴきならぬ状況と化していた。ブレードを脱いでいる時間は無い。このまま飛びこませてもらいます!


風が熱い・・

ノコギリ山は相変わらずキザキザの山頂を見せていた。キャプテンは放心したように滑っている。

先ほど物凄く熱いトイレの中で用を足し、想像以上に体力を消耗してしまったようだ。喉は渇き切っていたが、腹具合の悪さが水分を取ることをためらわせた。それでも、汗はとめど無く流れ続けている。

『喫茶・岬』に着くまで我慢し、そこでアイス・コーヒーでも飲もうと想った。あそこならトイレも有るし、休んで行ける。そう考えて、よし、と想ってからが長かった。

前回走行時の記憶は、各ポイントごとの断片的なもので、ノコギリ山の頂きが見えてから『岬』まではほんの30分ぐらいのように想っていた。しかしそれは間違いで、実際に滑ってみると、1時間過ぎてもまだ着く気配が無かった。やがて、トンネルが一つ二つと現れ始め、ああそうだった、その前にトンネルが有ったのだ、と想い知らされ、改めて、相当な距離が有ると言う記憶が蘇って来たのである。

一説に、旅は一度通った道をなぞってはいけない、と言う言い方があるが、それは正しいのかも知れない。疲れ切った身体をおし進めてくれるのは、次々に現れてくる新しい風景なのだ。今回、次第に前進する意欲が失せて来るのは、35℃以上の熱さと、13kgの荷物の重さと、36歳と言う年齢のためだけではないらしい。未体験の道と、経験済みの道とでは天と地ほどの差があるようだ。

明鐘岬への入り口に着いたのは午後2時を過ぎたころだった。そこには127号の長いトンネルを迂回する道があるが、迂回路は舗装されておらず、ブレードを脱いで歩かねばならない。

観光客用の駐車場で荷物を降ろしていると、小さな女の子が、キャプテンの姿をのぞいて逃げて行った。その子の行く先に目をやると、父親が、車に海水浴の道具を積めこんでいた。その横にも車が数台止まっていて、どうも、前回来たときより賑わっているように見えた。

ブレードを脱いでアウトドアサンダルを履き、のたのたと歩き始める。歩くと言う行為が、もどかしいほどの速度だと想えて来る。

駐車場を抜け、道なりに進むと、眼下に海が見えて来る。そうして、左手には例の店、『岬』が現れる。喫茶室とは言え、木造の小屋のような建物である。壁をペンキで塗り替えたらしく、妙に色鮮やかになっていた。

入り口の前に回り込むと、二人の女性が立ち、海を眺めていた。その一人の方は、確かに見覚えの有る「岬の女主人」に違いなかった。もう一人は解らない。もっと若い、30代と思しき女性である。

女主人はキャプテンを見つけると、ニコッと笑って、
「どうぞ、休んでってください」
と言った。しかし、二年前のことを想い出したと言うわけではないようだ。

その声に促されるまま店に入ると、狭い室内には、数人の釣り人らしき客が休んでいた。その内の何人かは、キャプテンを見て、切っかけを見つけたかのように立ち上がり、無人のカウンターに金を払い始めた。

それらの客達が出て行くと、店には、頭にバンダナを巻き無精髭を生やした中年ビーパル野郎と、ヤンキースのキャプを後ろ前に被った若い男が残った。ビーパル野郎もそろそろ出掛けるつもりなのか、煙草とライターをポケットにしまおうとしている。

キャプテンはビーパル野郎のハス向かいに座ることにした。店の内装はほとんど変わっていないように想われた。海側の窓に備え付けられた望遠鏡もそのままである。以前同様、開け放した窓からは絶えず風が吹き込み、熱さを感じない。ずっと休んでいたくなるほど気持ち良かった。

やがて、女主人ともう一人の女性が店の中に戻り、飲み干されたグラス類を片付け始めた。アイスコーヒーと決めていたが、いちおうメニューを見るふりをして注文を待っていると、突然ビーパル野郎が大きな声を出した。

「あれえ?! キミさあ、自転車?」。男はキャプテンに向かって、疑うような口調でそう言った。「あっ?・・いえ、自転車じゃなくて、ローラー・ブレード・・。ローラー・スケートみたいなもんですけど」

「ローラー・スケート!?」
「ええ、タイヤが一列に並んでるやつ」。そう言うと、男は少し間を置いて、「それじゃあさ、ひょっとして、きのう16号を滑ってなかった?」と質問してきた。

「はあ・・。確かに、きのうは16号を滑ってましたけど?」
「ホント?! じゃあキミだ!」。男は驚いた様子で言った。「やっぱり、オレがきのう見たのはキミだったんだ。そうそう、そのハデなザックだったもんなあ」そして、なるほどと言うように頷いた。

「そうなんですか・・」。キャプテンは呆気に取られていた。少しの間言葉が見つからず黙っていると、店の奥から女主人が水を運んで来た。

「ローラー・スケートって?。あら?、もしかして、初めてじゃないわよねえ?」ようやく彼女も気づいたらしい。

「はい、そうなんです。二年前に一度、二人連れで」
「そうそう、ここに来たわよね? そうだわ、へえ・・」。そう言いながら目の前にコップを置いた。

「何にする?」
「あの、アイス・コーヒーを」キャプテンがそう言うと、男も、
「せっちゃん、オレにもアイス・コーヒー作ってくれる?」と言った。

女主人は『せっちゃん』と言うらしい。せっちゃんだから、セツコとかセイコとか、そんな名前なんだろう。それに男の方は、口ぶりからしてこの店の常連のようである。彼はキャプテンに興味を持ったらしく、出て行くどころか、新しいアイス・コーヒーが来るのを待って、じっくり腰をすえて話そうじゃないかと言う意気込みある。すでに飲み終えていたグラスを自分で片付け、テーブルに染みた水を拭いていた。

「どこで見たの?」女主人がアイス・コーヒーを運びながら言った。
「ああ、あれはねえ、たしか、五井の辺りだったかな?。この炎天下で何やってんだこいつ!って想ってさ」

男はオートバイで東京から16号を走って来るところだったと言う。その途上でキャプテンを見かけたのだ。

「まさか、ここで会うとはねえ」。彼はこの偶然を楽しんでいるようだった。そのあと、キャプテンは二年前の鴨川走行のことを話し、そのとき、ここの妙な客に店に引き込まれてしまったことなどを話した。

「あのときも熱かったけど、それなりに気持ち良かったんです。でも、今年はきついですよ」
 そうキャプテンが言うと、
「そりゃそうだ。今年の夏はバイクだってイヤになるくらいだぜ」
 と答えてから、少し顔をしかめて「もう、やめた方がいいんじゃない?」とふざけて言った。

「じつは・・、オレも、そう想ってたところなんですよ」
キャプテンも笑いながら答えた。しかし、冗談のつもりが、本当に力が抜けて行くような気がした。

「どうして、また、こんなことをしてしまったのだろう」
そんな想いが湧き上がって来る。

極度の疲労と、灼熱と、身体の変調。何の利益も無く、出発前のウキウキした感じも消えている。残っているのは、途中であきらめたくないと言う気持ちだけ。

もし男に「なぜ、こんなことをするんだ?」と尋ねられたら、どんな風に答えていただろう。
『自分の夢を実現させる快感』
いつものように、さっそうと答えていただろうか。それとも「なぜだか、さっぱりわからない」と、つぶやいていたのか・・

ひとしきり話しを終えると、ビーパル野郎は、望遠鏡が備えられた窓に目をやった。その向こうに銀色に輝く海が見えていた。今日は釣り客が多いらしく、女主人は出たり入ったりと落ち着かない。

「・・そう言うのは、若いうちにやっておかないとな」。ビーパル野郎が言った。
「若いうちは気がつかないんだ。日に日に自分が歳を取ってるってことが」
「そうなんですか」
「ああ。・・出来ることは、出来るうちにやらないと」。そう言って男はストローを抜き、残りのコーヒーをグイッと飲み干す。カラッと音して、氷が口元に落ちた。

その時になって急に、この男は一体何者なのだろうと思った。年齢はキャプテンよりも上のようだが、格好がまったく遊び人である。バンダナの巻具合もただ者では無い。昨日東京から16号を来たと言うが、東京で何をしているのか見当もつかない。

表で客相手を終えた女主人が戻って来て、「泳いでいったら?」と男に言った。彼にはその気はないようで、陽射しが強すぎると言って断った。

やがて、次ぎの客数人が入って来るのを見たとき、キャプテンはそろそろ出発の時間だと想った。
 
別れ際に男が言った。
「あした、オレも千倉まで行くからさ。運がよけりゃ、何処かでまた会えるかもね」



キャプテンが次の激しい腹痛に襲われたのは、『岬』を出て、店の前から続くトンネルの迂回路を歩き、ノコギリ山の入り口付近にさしかかったときのことだった。『岬』で随分良くなった気がしたが、体調は戻ってくれなかったようである。

だが、そこからが長かった。トンネルの迂回路はやがて終わり、行き止まりの看板が現れた。前回はここで崖っぷちをズルズル滑り降りて行ったのだが、今はそんな気力は無い。どうすればいいのだろうと、地面の足跡や自転車のタイヤの跡を追って行くと、そのままトンネルの中へと通じていた。やはりここからは、地元の人でもトンネル内を行かなくては駄目らしい。

迷っている暇は無かった。いつまた腹痛が襲って来るかも知れないのだ。キャプテンは、持って来たあらゆる反射テープやライト類を身につけると、覚悟を決め、トンネルへと向かった。

トンネルは地獄への入り口のようだった。恐ろしい轟音が反響し、排気ガスの嫌な風が絶えず吹きつける。ドライバーはまさか人間が歩いているとは想わず、ほとんどの車が、キャプテンを発見しては急ハンドルで避ける、と言った挙動を見せた。

長い暗闇がようやく終わると、緊張がほどけるのを見計らうように、何度目かの腹痛が襲って来た。今度はいけないようである。あぶら汗が頬を伝う。近くに元名海水浴場があると言う看板を見つけ、そこのトイレを借りることにした。

トイレから出ると、精も根も尽き果てていた。すでにブレードを履く意欲は無く、ここから16km先の、大房岬のキャンプ場はあまりに遠い場所だった。

時計は午後3時を回っていた。『岬』を歩き始めてから約一時間がたとうとしている。ふと気がつくと、二年前泊まった、食事の豪華な民宿の前に来ていた。空いていたら泊まってしまおうかと想ったが、玄関の前は人でごった返していた。にぎやかさがうっとうしく、そのまま通り過ぎる。

もう少し閑散とした宿があれば、と歩いていると、白いペンション風の民宿と、廃屋になった民宿とが見つかった。もちろん廃屋に泊まるほど物好きでは無いが、ペンション風も気が重い。さらに30分ほど歩くと、丁度手頃な民宿が見つかり、そこの扉を叩いた。

その夜解ったことは、あの民宿の人だかりにはそれなりの理由が有ったと言うこと。つまり他の宿と比べて、かなり豪勢な海の料理を出す宿のようなのである。二年前、新妻君と飛び込んだときも、かなりの料理が出たのにもかかわらず、一旦は食事の用意が出来ないからと断られたのは、『豪勢な料理』を売り物にしている自負からだったのかも知れない。

あの日、予約も無しに泊まれたのは、ラッキーだったのかもなあ、と今夜はこの宿のつましい夕食を食べ、十分に水分を取り、胃薬を飲んで横になった。


いつの間にか眠っていたらしい。『館山駅』のベンチには、涼しい風が吹いていた。なんだがとても気分が良かった。

後ろに停車中の列車には、一人二人と学生が乗り込んで発車時刻を待っている。ホームでは、父親と女の子が自販機のジュースを選んでいた。

「これから、どうするかだ」キャプテンはぼんやりと、次ぎの行動を考えていた。

本当なら、今夜は南房総の根本キャンプ場に泊まり、翌日の午後到着の予定だったが、この熱さに、すっかり気持ちが切れてしまったのだ。途中、励ましてくれた沢山の人々には申し訳無かったが、ここで身体を壊すと、ゴブリンズ鴨川キャンプのメンバーに迷惑をかけることになる。

しかし、いきなり朝からゴールの宿を訪れる訳にも行かず、とりあえず時間をつぶしながら、『保田駅』からここまで、内房線に乗ってやって来た。途中、岩井海岸の道路が見えると、やっぱり滑れば良かったかな、とも想うのだが、列車の冷房にさえ悪寒の走る身体では無茶と言うものだ。

とりあえず『館山』で降りて・・、いや、たまたま乗った列車が館山止まりだったのだが、駅のベンチに腰をおろし、次ぎの行動を考えている内に眠ってしまったらしい。それにしても、静かで気分のいい駅である。このまま1日、このベンチで過ごしてもいいと思ったくらいだが、そう言うわけにも行かない。

さて、次ぎをどうするか・・。観光して歩くのも面倒だった。海水浴もどうかと想うし、鴨川シーワールドに一日中いるのも情けない。よくよく考えて、けっきょく結論は一つしか出なかった。

「とりあえず、フラワーラインまで滑るか・・」

どうと言うことはない。ほかに時間をつぶす方法が見つからなかったのである。それによく考えたら、ここまでの約70kmは、ほんの序の口に過ぎない。風景がいよいよその醍醐味を見せるのは、この先の南房総フラワーラインからなのだ。あそこは一年中美しい花が咲いているはずだし、ブレード走行のエネルギー源が風景なら、そこではきっと、何か素晴しいことが起こるに違いないのだ。

そう言い聞かせると、さっそく駅を出て、駅前商店街を抜け、北条海岸まで歩いた。ここからブレード走行再開だ。

だが、これがまたいけなかった・・。この日の熱さも驚異的で、その炎天下を約4km、時間にして40分も滑っただろうか、ひどく気分が悪くなって来たのである。どうにもこれは最悪で、治まりそうにも無い。やっとのことで日蔭を見つけて、繁みの中に入り込んだのだ。ところが、座ったとたん急にムカムカして、食べた物を少し戻してしまった。心臓の鼓動もやたらドキドキと大きく、重苦しい。

これはちょっとやばい、と初めて命の危険を感じた。そしてちょうど路線バスが目の前を通り過ぎるのを見たとき、「助けてくれ・・」と、心底そう想った。

何とかバス停まで行こうと想ったが、身体を動かすと、すぐにまたムカムカしてしまう。どうしたらいいんだ? と想ったとき、『ホカロン』の反対、『ヒヤロン』が有ったのを想い出した。それを取り出して拳で叩き、液体が入っている袋を破いて薬品と混ぜ合わせると、化学変化を起こして氷のように冷たくなる。

とりあえずそれで額や首筋などをやみくもに冷やしてみた。するとうまい具合に、腹部でグルグルッと音がして、重苦しいものが下に降りて行ったのである。

「そうか、頭を冷やせばいいのか!」と気づき、あることがひらめいた。

キャプテンは少し楽になったところで起き上がると、釣り具屋を探して滑り始めた。氷を買い、頭を冷やしながら行こうと想ったのだ。間もなく小さな店を見つけ、一袋のブッカキ氷りを手に入れた。頭はもちろん、首筋の動脈に当てる。こうすれば、脳に送られる血液を冷やすことが出来るはずだ。

氷が解けて来れば、その冷水を飲んだり、背中に浴びせたりすればいいし、氷は口に入れてガリガリとかじって・・。このアイデアは効き目充分だった。次第にムカつきが治まり、手足に力が戻って来た。これなら、しばらくは何とか行けそうである。

そうやって一袋の氷だけを頼りに、起伏の多い海岸線を滑り抜いて、何とか南房総の西の先、『洲崎神社』までたどり着くことが出来た。道沿いの建物の陰で休んでいると、そこは偶然、二年前新妻君が、「想えば遠くへきたもんだ」を歌っていた場所だと気がついた。

ほとんど車通りの無い道路。ジリジリと太陽が照りつけ、その表面は、立ち上る熱気でゆらゆらと揺れていた。「氷りのおかげで随分よくなったけど、いつまたどうなるかもわからない。行ける内に行っておかなければ・・」

そう想って立ち上がった拍子に、落下した汗の滴が見る間に乾いて行くのが見えた。見上げると、目の前の『大山』の山頂付近には、一塊の積乱雲が、軽い雷鳴を響かせながら漂っていた。

今日は降られたくない。身体が濡れると、乗り物に乗るのが面倒になるからだ。もちろん傘は持っていなかった。このまま滑り続け、氷が溶け切ったところで、バスに乗ろうと考えていた矢先のこと。それまで空がもってくれたらよいのだが。

見渡したところ雲はそれだけで、あとは快晴の空だった。

キャプテンはブレードのバックルを締め直した。そして再び足に力を入れると、やや粗くなった路面を、一度、二度、蹴った。身体はもたつき、魂だけが先へ先へと進んで行くような気がした。

もうすぐだ。もうすぐ・・
ひと蹴りごとに、風は熱い空気の塊になった。
雷雲がゴロゴロと唸りを上げる。

無人のバス停を通りすぎると、真っすぐな道の先には、かげろうごしに深い海の群青が見えて来た。

あそこまで行けば良いのだろうか。それとも、あれは蜃気楼だろうか。
何処まで行ってもたどり着くことの無い、幻の100マイル地点。
どちらにしろ、氷が溶け切るまでの命だった。


灼熱の路面を、一人のブレードランナーが滑って行ったはずだ。
『岬』からバイクで来た男は、そう言ってヘルメットを脱いだ。
どこまで行ったのだろう。南房総フラワーラインに咲いているはずの花は、夏の日照りに全て枯れ果てていた。

本当にあいつは、この道を来たのだろうか。
海辺にいた数人の釣り人達は、口々に、そんな奴は知らない、ただ八月一番の南風なら、確か、今しがたまで吹いていた、とだけ言った。
その話しを聞いてなお、男はあきらめ切れない様子で、再びバイクにまたがった。

しかし、その男には絶対に彼の姿を見つけ出すことは出来ないだろう。なぜなら、ちょうどその頃キャプテンは、白浜から千倉へ向かうバスの中で、気持ち良く、居眠りをしている最中だったからである。
 
 
 
 
 ★ブレード走行・幻のBOSO100マイル
 コース     :千葉-鴨川(白浜でリタイア)
 日程      :1994年8月17日~19日
 天気      :晴れ・雷雨
 平均路面温度  :35℃
 述べ走行距離  :96.6km
 述べ走行時間  :16時間
 平均速度    :6km
 通算走行距離  :620.3km




<おしまい>





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「南房総に夏の終わりの夢を見た」前編 ★1992年8月21日(金)15時。キャプテン高橋とゴブリンズ新人・新妻英利は、ついに総武本線千葉駅から鴨川キャンプの拠点、民宿ウエダ(天津小湊町)までの162.2キロをローラー・ブレードによって走破する事に成功。これは前回の東京−富士間77.5キロを、84.7キロ上回る距離であった。 千葉 - 鴨川ブレード走行記 1日目 〜 2日目「千葉駅 〜 木更津 〜 鋸南町」 *前半 目次* 待ち合わせは千葉駅 快調な滑り出し16号 あまりに場違いな昼食 塩吹くキャプテン高橋 『すえひろ』で生き返る 場違いな宿、グランパークホテル 朝、雨が降っていた 救いのオヤジさんが現る あじフライとあじの天ぷらは違う 音無き警鐘が聞こえる 午後の海辺をブレード・ランナーが行く ノコギリ山に思わぬ敵が待っていた 岬で『岬』と言う喫茶店に引き込まれた さらに苦難の道は続く 民宿は旅のオアシスだ 後編へ・・ ■ 待ち合わせは千葉駅 ■ 嵐が幾つか通り過ぎる頃、空はどこか澄んで、別の季節の色を見せていた。6月の『東京—富士ブレード走行』から、約2カ月、常にキャプテン高橋の胸に去来していたイメージは、南房総のまぶしく輝く海、熱い夏の空気を切り裂く、ブレード・ランナーの姿だった。 8月18日火曜日、9時半。総武本線の終点、千葉駅のホームで、高橋、新妻の両者は、ブレード走行決行のために待ち合わせた。新人・新妻英利君は、果たして心強い伴走者となるのか、それとも単なる足手まといとなるのか、それは誰にも解らなかった。 天気は曇り気味。雨を予感させる黒い雲も漂っていた。南では台風が近づいていると言う。天候はどうなるのか、全く予測が立たなかった。 二人は『総武線千葉駅ホームの進行方向一番前』で会うことにした。気持ちを『前向き』にするため『一番前』を選んだのだ。しかし、ここは終着駅なので、折り返して電車が出発すると『一番うしろ』になってしまう欠点が有った。だが、そんな事にかまってはいられない。二人は勇躍駅を後にした。 ■ 快調な滑りだし、16号 ■ 16号沿いの歩道で用意をする。前回強烈な靴ずれの痛みに悩まされただけに、今回は、テーピング、ワセリン、ガムテープで、対策に万全を期す。用意が済んで立ち上がると、お巡りさんが自転車を止めてじっと見ているのに気づいた。二人は何も悪い

「霞ヶ浦自転車道」2009

< 霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009 > ★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。 当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。 が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。 ★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・ 決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。 けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。 隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。 そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。 そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲

「高崎伊勢崎自転車道」2010

<高崎伊勢崎自転車道「井野 - 伊勢崎 51.9km」2010> ◎ 井野ー伊勢崎 GPS走行ログ ★2010年5月2日、インラインスケートによる、群馬ブレード走行を行いました。今回は「高崎伊勢崎自転車道」と言うサイクリングロードを、高橋、土屋、遠藤の三名で滑りました。集合駅は両毛線「井野駅」。そこから数百メートル離れたスタート地点から出発、ゴールは自転車道沿いにある、伊勢崎市の「まちかどステーション」と言うバスの待合室。 当初、走行距離は「42km」の予定でしたが、途中コースを間違えて引き返したり、工事中の迂回で大回りしたりなど、少しずつ距離が増えて行き、けっきょくは「51.9km(iPhone・GPS測量による)」と言う、大変な距離を滑ることになってしまいました。「体力の限界」という言葉が有りますが、本気でそれを味わいました。 それがどんな道のりだったのか。ほんの一部ですが、デジカメで撮影したムービーなどを参照してみてください。デジカメのレンズにホコリが入ってしまい、多少見づらい部分が有ります。(修理の見積もりを出してもらったら2万円近くかかるとのことで、そのままになってます) ただし体力の限界のため?、残り約8kmと言うことろで、撮影やブログアップなど、何もする気力が無くなってしまい、残念ながら終盤部分のムービーなどが有りません。ご了承願います。 パンラマ写真・土屋氏提供 走行中に送った写メール 出発です。伊野駅から川沿いの自転車道へ 出発から10kmほど。大きな公園内で休憩 広々として野球場が見えて来ました 道を間違えましたが、ついでに昼食 緑の中の気持ちいい道 だいぶ疲労して来ました。景色も単調? 野球見物は何故か楽しい。休憩ついでに 51.9km 終了!。疲れました・・。スーパー銭湯までタクシーを呼びます

「飯倉 - いいおかみなと公園」2016

◎ ブレード隊走行ログ ★2016年5月5日。1年ぶりに、恒例の「ブレード隊」インラインスケート走行が行われました。今回はブレード隊の原点である「海岸線ルート」を選択。とは言え、公道はなるべく避けて通りたいので、主に農道や、海岸線のサイクリングロード(太平洋岸自転車道)を滑りました。 ただし、隊長:高橋は、年齢による体力の衰えと、足首周りの故障のため、インラインスケートではなく、より消耗の少ないキックスケーター(左写真・もちろん大人用)を使用しています。そのため、カメラは手持ちではなく、スケーターに直接取り付けまして、そのせいで、動画には振動とカラカラと言う車輪のノイズがかなり入っております。 さて、1992年に、初のインラインスケートによる長距離走行「八王子 - 富士吉田・約80km」を行ったときは、国道413号の公道にもかかわらず、すれ違う沿道の人々に歓迎され、励まされ、ついには白バイの警察官にまで、わざわざ拡声器で「ガンバレ!」との応援をいただき、力を得て進んだものですが・・ 包容力に満ちたあの時代から二十数年・・ ネット社会になってからと言うもの、正義の名の下に、自分たちの意にそぐわない者は、立ち上がることも出来ないほど寄ってたかって潰される、と言う現状を見るにつけ、世代が入れ替わり、「包容力」の意味も通じなくなったかのような世の中で、今になって、あえて一般道を滑るのはどんなもんだろう?、と言う不安も確かに有りました。 ですが、すれ違う農家の方々はみな好意的で、みな会釈してくれたし、笑顔で「楽しそう!」とか「頑張って!」とも声をかけていただきました。‥‥まことにありがたい話しです。農道は公道ではなく私道扱いなので、言わば人んちの庭を滑っているようなもの。なのでもちろん、こちらから頭を下げて通らせていただきましたよ。 いちおう、法律的な解釈を以下に記しておきます。 道路交通法第76条(禁止行為) 「交通のひんぱんな道路において、 球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること」 動画を見てもらえれば分かりますが、「交通のひんぱんな道路」と言う条件には当てはまらず、よって禁止行為には当たらないことになります。むしろ動画は、映像にアクセントをつけるため、数十分のストックの中から、わざと車の写ってる部分をピックアップしたくらいです。条件を考慮せず

「渡良瀬川自転車道」2011

<渡良瀬川自転車道「小俣 - 藤岡 37.6km」2011> ◎ EveryTrai「小俣ー藤岡 ルートログ」 ★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。 震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルし、次回以降に期待しようと想いました。ですが、震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。 試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになりました。で、震災から2、3日後でしたか、これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると日本経済沈没の危機になりかねない、との直感が働くようになりました。 ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。 たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。 そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも普通の暮らしを」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。 それにしても東京都知事の、東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。 同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。 さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡

「手賀沼周回ルートへ行った、が・・」2013

 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5kmは

GOBLINS・ブレード隊とは?

★ 「ブレード隊とは?」 草野球チーム・ゴブリンズを母体とし、そのメンバーの中から、インラインスケートによる長距離走行をするために集まったチーム。 1990年、元ゴブリンズのメンバーで当時NY在住のM氏から、セントラルパークで流行し始めていた「ローラーブレード・ゼトラ303」を、ゴブリンズのキャプテン高橋が、帰国土産として手渡されたことから始まる前代未聞の旅のお話しである。  記念すべき最初の走行は、高橋による単独走行。ローラーブレードを手に入れてから2年後の1992年6月、「道志道」と呼ばれたアップダウンの険しい*国道413を、八王子から富士山(山中湖)を目指して、単独インラインスケートによる約80kmを、二日かけて走破することに成功した。 (*国道413:2020東京オリンピック自転車ロードレースのコースとなった道) 2006年までに走破した全ルート 同じ1992年の8月、その話しに興味を持ったゴブリンズ新人で10歳下の新妻が初参加。インラインスケートによって、千葉駅から天津小湊の民宿までの162.2kmを、真夏の炎天下、四日間かけて二人で走破。これが後々、伝説として語り継がれる?「ブレード隊」誕生の瞬間であった。 「ブレード隊命名」・・当時の日本では、まだ「インラインスケート」との呼び名は無く、一列に並んだローラースケートは全て「ローラーブレード」と呼ばれていた。そこで我々も複数メンバーによる走行を略して「ブレード隊」と呼ぶことにした。 しかし、まだ動画はおろか携帯電話さえ無い時代。それゆえ、当初は高橋による手記「走行記」と言う形で発表。その後、初の記録動画としてまとめられるまでには、さらに20年以上の歳月が過ぎるのを待たねばならなかった。(動画はYouTube:一部は限定公開) 動画以前、走行記の目次 ◇ ブレード走行記(文章形式)目次

「茨城46億年後の一期一会 .2」1996

1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来