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「三年ぶり、ブレード走行熱海」1999

三年ぶり、ブレード走行熱海

★1996年の夏、高萩 - 犬吠埼の茨城走行が終了したあと、ゴブリンズの周辺は一変してしまった。レギュラーメンバーの約半分が、仕事のためハワイに移住してしまったのだ。もちろんチームは事実上活動休止。ブレード隊もバラバラになってしまう。・・れから、約3年の年月が流れて、ゴブリンズは一人また一人と、再び仲間が集まり始めていた。

だが1999年5月2日、まだ何かが足りないキャプテン高橋は、ついに三年ぶりのブレード走行を行うため、一人列車に乗っていた。向かった場所は伊豆。出発地点は熱海。かつて1996年の春、森広隊員と滑った湘南ブレード走行(茅ヶ崎 - 熱海)の続編を決行するためである。

熱海の駅を降りたとき、時計は午前10時をまわろうとしていた。天気はこれ以上無いと言う快晴。陽差しがまぶしく、歩くだけで熱気を感じる。ただ、時折り吹く風はひんやりとして心地良かった。

駅前通りの坂を下って、途中、自家製パン屋で、アンドーナツと、カレーパンと、クロワッサンと、桃の天然水とを買った。パンは焼きたてでまだ暖かく、ふんわりとしている。

そこから土産物屋が並ぶ通りを抜けて海岸へ出る。右手方向の、これから向かおうとする135号線の先に目をやると、急な上り坂の道が、山の向こう側にまわり込んで見えなくなっていた。そこを、ゴールデンウィーク中の渋滞した車が、ノロノロとうごめいているのだ。

少し気が重くなっていた。もっと普通の日にすればよかったと想う。それでなくても伊豆は、道が狭い、アップダウンが多い、迂回路が無いと言うことで、ブレード走行禁断の地と言われ続けて来たところである。しかもあの車の数だ・・

しかし、このところ週末は雨続きで、連休に入ってようやく上天気になったのだ。これ以上待つと、次のチャンスはいつになるか解らない。

ともかく一服して、パンをおやつにしながらメールを書こうと想った。今回はゴブリンズへのモバイルメールで、ブレード走行のライブ中継をやろうと想っていたのである。

砂浜への広い階段を中ほどまで降り、海を眺めた。水ぎわをたくさんの人々が歩いていた。

その場で腰を降ろし、携帯電話とザウルスを取り出す。まぶしすぎるので、ツーリング用サングラスをかけた。そうして、5月の心地よい風に吹かれながら、メール文を考え始めるのだった。(このころ携帯メールはまだ普及していません。携帯電話を接続したザウルスからの送信が、最先端の方法でした)
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 1999/5/2 10:03
 email:From: Fumiaki Takahashi
 ★約2年ぶりのブレード行走のため
 熱海まできました
 天気快晴 路面温度29度
 しかしGWのため人や車があまりに多く
 この先進めるかどうかわからず

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・・まだ迷っていた。このまま引き返すか?

メールの送信を終え、道を歩き出す。いい場所を見つけて履き替えようとも思うのだが、なかなか履く気にはなれなかった。青い収納袋に入れ、手に持ったまま、国道135号線の上り坂を歩いていた。

ここは、さっきメールを打っているとき遠く見えていた場所だ。海へ突き出た海岸のあたりだ。そんなところまで、歩いたまま来てしまったのだ。

道は上り下りとも隙間なく車が並んでおり、それでも進もうという何台かがジリジリと前に詰めよっている。

キャプテン高橋は、その車と山とに挟まれてまだ歩き続けていた。動かない車の横を通り過ぎるとき、窓からは次々に「何者だ?」という視線が向けられる。「だから・・、オレは、ここを歩きに来ただけなんだ。ただのバックパッカーだよ」と、装っている自分に気づいていた。

完全に弱気になっていた。履き替えるチャンスならいくらでもあったのに、勇気が出なかった。道の脇に座り込んで、渋滞の車の好奇の目にさらされながらローラーブレードを履く、そんな気にはなれなかった。

だから・・、天気もいいし、気温もポカポカとしてちょうどいい感じだし、このまま偽りのバックパッカーになりきって、まぶしい伊豆の海を楽しみながら昼飯でも食べ、何処か見知らぬ駅から、こっそり帰ってしまうのもいいかも知れない、そう想ってしまったのだ。

だが、そうも行かなかった。キャプテンの胸のあたりには、やりかけたことを途中であきらめてしまう時の、あの挫折感という重苦しいやつが、早くもわだかまり始めていたのである。

排気ガスの匂いに気分が悪くなって来た。やたら咳き込んでしまう。
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> Date: Sat, 01 May 1999 15:41:10
> From: Tadashi Endo
> がんばれー
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> Date: Sun, 2 May 1999 10:37:06
> From: Akimi Takahashi
> こちらも快晴です。ナビをつければ?
> ・・気を付けて行ってください
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滅入っていたところへ、初めて屋外でEメールを受け取った。それはキャプテン高橋にとって、けっこう不思議な感覚だった。

送り主は、ハワイ在住の元ゴブリンズ外野手・遠藤氏(現・日本在住)、それからキャプテンの弟だ。遠藤氏とは何度か長距離ブレード走行をした仲である。弟の方は何処で受け取ったのか、ドライブか何かと勘違いしているようす。

じつは弟は、夫婦そろって聴覚障害者なのである。したがって電話での連絡は不可能、今までは主にFAX.に頼っていた。しかしインターネットとモバイル端末の発達で、事情は一変した。彼らはEメールの出来るPHS文字電話機を入手し、こうして屋外での、タイムラグの無いやり取りを行うようになったのである。

コンピュータ・テクノロジーの発達は、意外にも障害者の日常において、革命的な変化をもたらそうとしている。ある時は耳の代わり、ある時は目の代わり、ある時は口の代わりとなって、外界との情報伝達を補うのだ。

たとえばこんな話しがある。生まれてからずっと誰の声にも反応せず、一日中画用紙に意味不明の模様を描き続ける青年。その大量の紙の始末に困った施設の職員が、ある日、彼にコンピュータを与えたところ、その日からワープロソフトを使って、とめどなく叙情詩を書き始めたと言う話し。まるでファンタジーだが、これは日本で本当に有ったエピソードだ。

大袈裟に言えば、人間の体は、バーチャル・リアリティー・システムにすぎないのかも知れない。だから、たとえ五感と言うセンサーに不都合が生じても、本体である心は、奥底で情熱的に生き続けている。

ふとキャプテン高橋は想う。ハワイにいる遠藤氏と耳の不自由な弟との、アウトドアでのリアルタイム通信。どうもこれは、第六感、つまりテレパシーに似ているような気がする。

障害者は、失われた五感の一部をコンピュータによって取り戻し健常者に近づく。そして健常者は、五感以上の感覚を手に入れて、その上の、何か解らないモノに近づこうとしているのかも知れない。
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 1999/5/2 11:25
 From: Fumiaki Takahashi
 ★返信をくれた人 ありがとう
 予想どおり激しい車の数 
 すべったり歩いたりのくりかえし 
 軽くパンを食べて続行

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何とかまともにブレードを履くことが出来たのは、熱海市街から離れ、坂を上り切って、海を見下ろせる曽我浦大橋にたどり着いた時だった。観光スポットが近いらしく、きれいな茶色のタイルを敷きつめた歩道が始まっていた。

そこをおもむろに滑り出すと、風が起こって、汗が乾くのを感じた。スピードを上げて橋を渡り、植物園のような建物の前を通り過ぎた。

しかし、その幸運も長くは続かなかった。少しずつ木々が茂り始めて、緑深い山道になると、ついに歩道が途切れてしまった。

アップダウンはそれほどでもないが、すぐ脇を車が通るので神経を使う。下りは足をそろえて滑り降りればいいが、上りはキツかった。ハの字で漕がなければならないが、大股では前進出来ない。いつしか身体が火照り、汗がしたたり落ちてくる。

しばらく、蛇行する道をゆっくりと進み、まもなく赤根トンネルに出くわした。迂回路も有ったが、勾配がキツくて大変そうなので、トンネルを歩いて抜けることにする。

数分で抜けると、いくらか道幅が広がって、再び歩道が現れた。今度のは、路面はあまり良くないが、緩やかで長い下りだ。ホッと一息ついて、流れに身を任せることにした。

段差や小石に気をつけながら勢いよく滑り降りて行く。すると、いつしか両側の木々が途切れ、建物が多くなって来た。そして間もなく眼下には、湾状になった港町が見えて来たのである。

滑り降りて行きながら、渋滞で停止中のミニバンを追い抜いたときだった。
「ボクも持ってるよ!」
と、子供の声がした。振り返ると男の子が顔を出していた。キャプテンは手を振るのだが、その子は何故かそれきり黙ったまま。身を乗り出して見送っているだけだった。

坂が終って港町に入った。店などの看板から、『多賀』という町らしいと解った。山陰になっていた陽差しが戻り、また熱気に包まれる。

港の平らな海岸線は2kmほど続いていた。その間ゆっくりと心地よい滑りを楽しむことが出来た。砂浜になっている場所では、バーベキューを楽しむグループが幾つも見え、酌み交わされるビールが喉の渇きを誘った。

港が終わって家並みを過ぎると、また上り坂が始まった。林が広がり、やがて山道となる。その坂の中ほどでツーリング中の自転車に追い抜かれた。彼は何も言わず、ふり向いてニコリと笑った。その行く先に眼をやると、またもやトンネルが見えていた。すぐ横には迂回路が見えるが、『崖崩れのため通行止め』の看板があった。

さっき追い抜いて行ったサイクリストが、トンネルの手前で一度停車し、それから暗闇に消えて行くのが見えた。

ホントは滑って行きたかったが、トンネルの圧迫感に負けた。手前でブレードを脱いで歩いて行くことにした。自転車よりかなり遅れて中に入った。人ひとりが通れるだけのドブ板スペースしか無い。自転車がこの上を行ったとは考えにくいから、恐らく車道を行ったのだろう。だとしたら危険極まりない。

車に乗っていると気づかないが、中はひどいものだ。空気が悪すぎる。排気ガスで壁が黒く汚れている。バリバリバリと言う轟音が四方八方から響いて来る。ある霊能者によれば、強烈な悪霊が出現するとき、爆音のような耳鳴りがすると言うが、たとえばこんな感じだろうか。

そのまま決死の緊張感で歩き続けて、遥か前方に出口の光りを発見した時は、ホントに生き返った気がした。まさしく地獄からの生還である。出口の脇でブレードに履き替え、再び山道を滑り始めた。すると急に風景が開けて来て、想いがけずセブンイレブンが現れたのである。高台の、海が見渡せるいい感じの店だった。

昼時だし、海を見ながら“そば”でも食おうか、と考えた。・・が、ここで想わぬ事実が判明することになる。店の中に入って食べ馴れている「小分けそば」を買ったのだが、表に出て海の見える草の上に座り、いざ食べ始めてみると、その量が、東京のそれとは比較にならないくらい多いことに気がついたのである。たとえば東京のが腹八分目だとすれば、ここのは軽く満腹になってしまうほどなのだ。同じ270円なのに、これはあまりに不公平である(ここでは得したけど)。
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 1999/5/2 12:32
 From: Fumiaki Takahashi
 ★熱海をようやくはなれ港町になると
 歩道が現れ快調
 昼時で車も少なくなってきた
 まもなく網代についた

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> Date: Sat, 01 May 1999 18:37:37
> From: Tadashi Endo
> アジロといえば鯵ですかね。
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土曜日の昼下がり。返信は少ない。みんなコンピュータから離れているのだろう。それでもハワイより、ふだんは寡黙な遠藤氏からメールが届く。


「アジロと言えば鯵ですかね」か・・・
そうだ、鯵だ・・。鯵のひらき。鯵の朝食。今日は泊まる宿が見つかるだろうか。連休中だって一軒ぐらいはあると思うが、たぶん・・

そばを食べ終え、水分を取りながら海を眺めている。乾いた風に汗がひく。空はまだ快晴で、これはしばらく続きそうだった。再び滑り始めようと駐車場で準備をしていると、数人の観光客が物珍しそうに眺めて行った。が、もう人目は気にならなくなっていた。

出発するとまた道は山陰になった。陽差しがなくなり、少し肌寒さを感じた。路面は申し分無いが、見通しが悪いので車には気を使う。数が減ったのはいいが、その分飛ばして来るので困る。

だんだん道が険しくなって来た。時折り山側に歩道が現れるが、雑草や落ち葉で滑りにくい。一歩一歩、確実に足を進めて行く。きつい上り坂では、現在アメリカにいる森広隊員を想い出した。彼は登坂走行が抜群に強かった。『茅ヶ崎−熱海走行』の上り坂では、絶えず100mぐらい引き離されていた。

ただ彼のマシンはブレーキパッドの消耗が早く、下り坂で使い果たして、残念ながら熱海で走行不能となってしまったのである。つまり今回、熱海から始めたのは、その続きと言う意味なのだ。

しばらくして、またもや二つのトンネルに出くわした。最初のは500m。この長さにはさすがにたじろいだ。覗いてもまったく出口が見えないほどの暗闇。轟音と汚れた風が絶えず押し寄せて来る。

その時キャプテンは歩道のある右側を滑っていたので、まず左へ渡ろうと想った。と言うのも、警告灯や反射シールの類が全部ザックの後ろについていたからだ。これだと前方からの車には発見されにくいが、左側なら車が後方から来るので具合がいいのだ。

なかなか車が途切れず渡れないでいると、あとから自転車に乗った老人と飼い犬とがやって来た。彼らはキャプテンを一瞥し、平然とトンネル内に入ってしまったのである。おまけに犬はつながれておらず、ご主人様の後をのんびりとついて行く。大丈夫か?と想ったが、慣れているのか恐れる様子も無い。これにはキャプテンの方が驚き、そして勇気づけられた。

「だいじょうぶ! ワン君だって行くんだ。行ける行ける!」と想って、強引に突入してはみたのだが、これが実に恐ろしい場所だった。

「どうしてあの爺さんとワン君は平気なんだ?」。信じられない気分だった。とにかく恐ろしいこと甚だしい。「まさか、崩落事故が起きないだろうな・・」。いらぬ妄想まで広がってしまう。少し前の迂回路の土砂崩れを想い出したのである。

半分まで来たころ、排気ガスとほこりで、かなり喉がおかしくなって来た。タオルで口を押さえながら進むが、これも面倒だ。今度来る時は活性炭入りのマスクでも用意することにしよう。

時間にして10分くらいだろうか。恐ろしく長く感じた。・・が、出口に立ってホッとする暇も無かった。そこからほんの少し滑っただけで、なんと今度は、700mの大トンネルが現れてしまったのだ。“勘弁してよ”と、想わず挫けかけたのだが、よく見ると、それは古いトンネルの脇に作られた新しいトンネルで、内部には充分な広さの歩道が整備されていたのである。

「やれやれ、全部のトンネルをこう造ればいいのに」と想ったが、まあここは、歩道を付けてくれたことに感謝して進むことにしよう。
………………………………………………
 1999/5/2 14:17
 From: Fumiaki Takahashi
 ★網代をすぎたらひどい山みちになった
 500mと700mのトンネルをこえた
 それから伊東市に入って楽になる
 今ハトヤの前だ

………………………………………………

> Date: Sun, 2 May 1999 14:32:53
> From: Akimi Takahashi
> 今、お一人でドライブですか
> 泊まっていくの?
> くもっているので雨が降りそうです
> 日野市では
………………………………………………

弟はまだ、車でのドライブだと思い込んでいる。ブレード走行については説明したはずだが、本気にしてなかったのかも知れない。日野市では曇りだそうだ。伊東市ではまだ午後の陽差しが照りつけている。予報では明日から崩れると言うから、ギリギリと言うところかも知れない。

にぎやかな伊東の海岸線を滑りながら、それとなく宿を探してみる。干物を売っている店の間にチラホラ民宿が見えた。駅前のホテルや旅館は無理だろうが、あの辺なら泊まれそうな気がする。

出発前、地図上の計算では川奈あたりまで行けると踏んでいた。アップダウンコースなので約20km。どうやらその通りになりそうだが、もし川奈へ行って宿が無かったら、伊東まで戻って探した方がいいかも知れない。そして翌朝、また川奈から滑り出せばいい・・

さすがに伊東市、人通りが多かった。海岸ではやはりバーベキュー・ラッシュで、駐車場への車の出入りも頻繁だ。漁師風の男たちや、ウェットスーツ姿の女たちとすれ違った。歩道は広く、路面もすごくなめらかだった。

港のはずれで道が分かれていた。一方は山へと向かう国道135号、キャプテンが向かうのは海が間近に見える県道109号。この道を道なりに行けば川奈、そして城ヶ崎へと抜けるのである。

枝分かれして間もなく、人でごった返す海岸を通り過ぎたとき、携帯電話の着信音が鳴った。相手は「JCGL」時代の同僚、近野氏である。『ブレード走行ライブ』のメールが届いていたので電話したのだと言う。

こう言う行動の最中に携帯がかかると、街中での受信とは違う、何か不思議な浮遊感に見舞われる。以前やはりブレード走行中に、ロサンジェルスの三好氏から国際電話がかかって来て、これもなかなか面白い体験だった。

そうこうしている内に、深い木々に囲まれた寂しい田舎道に入った。そこから緩やかな上りと、長い長い下りを繰り返し、勢い良く滑って、そのまま一気に川奈の港町へと到達したのだった。

川奈は小さな港町だったが、観光客は意外と多かった。これなら宿もあるだろうとグルッと滑ってみるが、どうも見当たらない。時刻は15時を回ったばかりだし、宿捜しには早い気がしたので、とりあえず川奈駅まで行くことにした。

ところが軽く考えていたその道が、なんと本日最高の難所となってしまったのである。距離にすれば大したことはないのだが、相当な勾配の上り坂で、何しろ声をかけてくれた地元のオバサンが、「だいじょうぶかい?。歩いても20分ぐらいかかるんだよ」と、心配したくらいの大変な道なのだ。

見栄はって滑り出したはいいが、少し先を歩いている女子中学生さえなかなか追い抜けない。仕方なく、車を避けるフリをして休んでいると、彼女が振り向いて、気の毒そうにチラチラ様子をうかがっている。

とその時、坂の途中にしゃれた建物を見つけた。もしや旅館? だったら泊まってしまおう、と想って覗くと、『陶芸教室』との看板でガックリ、あきらめてしまったのだ。(後日ガイドブックで「陶芸ペンション日下部窯:一泊10000~12000円:陶芸教室・展示あり」と判明。ペンションと言う文字を見落としたらしい。残念)

川奈駅近くで初老の男性に道を譲られたので、軽く会釈をしたら、
「それ、ドイツで見ましたよ。たくさん滑ってました」

と、声をかけられた。立ち止まって話して見ると、ドイツへの旅行中、エライけんまくで滑っている奴らを見たのだと言う。ヨーロッパでは街中を暴走する危険なスケーターがいると聞いているが、それを目撃したのかも知れない。

男と別れて数分後、川奈駅に到着した。時刻は16時ちょっと前、ほぼ予定通りだった。駅前は小ぎれいで観光客も多いが、スーパーが一軒あるだけであとは何も無い。旅行案内所でもあればと期待したのだが、甘かったようである。
………………………………………………
 1999/5/2 16:44
 From: Fumiaki Takahashi
 ★けっきょく 今日の到達地点は川奈
 しかしえらい山の中で宿はなく
 伊東まで電車で戻って探そうとしたが
 GWの伊豆で泊まろうとしたのが甘かった
 部屋はひとつもあいていないので
 とりあえず温泉に入って
 ビールと食事をしようかと思う
 天気は最高の1日だった

………………………………………………
> Date: Sun, 2 May 1999 17:07:22
> From: Akimi Takahashi
> 大変な道だった!
> ツーリングテントもっていけばよかったのに
> それとも車の中???
> ツーリングテントは
> 近くの釣り具店で売ってるのでは?
> 明日はくもりだそうです
………………………………………………

海へ流れ込む川っぷちの、遊歩道のベンチに腰掛けて、ゆっくりと夕暮れを眺めている。

若い女性のグループ。浴衣姿の男女。そして犬を連れた中年の婦人・・。夕飯前の散歩なのか、むしろ人通りが増えて来た。張りっぱなしの足の筋肉を揉みほぐしながら、キャプテンは人々の流れを見ていた。

快い脱力感。そしてじんわりと沸き上がる何とも言えない達成感。こればかりは人に伝えることが出来ないが、ともかく、終了のメールだけは打っておこう。
………………………………………………
 1999/5/2 22:45
 From: Fumiaki Takahashi
 ★ゴブリンズのみなさんへ
 残念ながら今回のブレード走行は
 一日で終了してしまいました
 しかしながら不安視されていた
 キャプテンの年令的な問題は
 払拭されたようです?
 それからメ一ルを送ってくれた人に感謝します

………………………………………………
> Date: Mon, 3 May 1999 00:45:52
> From: "Hiro.Y"
> こんにちは、よこやま@51です。
> お疲れ様でした。ライブ感ありますね。
> ところで、どこの携帯を使いましたか?
> では、
………………………………………………
> Date: Mon, 3 May 1999 14:14:16
> From: Akimi Takahashi
> ご苦労さま
> テントはL.Lビーンがいいですよ
> 軽い物もうっている 新宿で
………………………………………………

ブレード走行・熱海-川奈
日程:1999年5月2日
天気:晴
最高路面温度:不明
走行距離:30km
述べ走行時間:約6時間



ブレード走行 熱海 ー 川和 おしまい


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< 霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009 > ★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。 当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。 が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。 ★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・ 決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。 けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。 隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。 そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。 そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲

「高崎伊勢崎自転車道」2010

<高崎伊勢崎自転車道「井野 - 伊勢崎 51.9km」2010> ◎ 井野ー伊勢崎 GPS走行ログ ★2010年5月2日、インラインスケートによる、群馬ブレード走行を行いました。今回は「高崎伊勢崎自転車道」と言うサイクリングロードを、高橋、土屋、遠藤の三名で滑りました。集合駅は両毛線「井野駅」。そこから数百メートル離れたスタート地点から出発、ゴールは自転車道沿いにある、伊勢崎市の「まちかどステーション」と言うバスの待合室。 当初、走行距離は「42km」の予定でしたが、途中コースを間違えて引き返したり、工事中の迂回で大回りしたりなど、少しずつ距離が増えて行き、けっきょくは「51.9km(iPhone・GPS測量による)」と言う、大変な距離を滑ることになってしまいました。「体力の限界」という言葉が有りますが、本気でそれを味わいました。 それがどんな道のりだったのか。ほんの一部ですが、デジカメで撮影したムービーなどを参照してみてください。デジカメのレンズにホコリが入ってしまい、多少見づらい部分が有ります。(修理の見積もりを出してもらったら2万円近くかかるとのことで、そのままになってます) ただし体力の限界のため?、残り約8kmと言うことろで、撮影やブログアップなど、何もする気力が無くなってしまい、残念ながら終盤部分のムービーなどが有りません。ご了承願います。 パンラマ写真・土屋氏提供 走行中に送った写メール 出発です。伊野駅から川沿いの自転車道へ 出発から10kmほど。大きな公園内で休憩 広々として野球場が見えて来ました 道を間違えましたが、ついでに昼食 緑の中の気持ちいい道 だいぶ疲労して来ました。景色も単調? 野球見物は何故か楽しい。休憩ついでに 51.9km 終了!。疲れました・・。スーパー銭湯までタクシーを呼びます

「飯倉 - いいおかみなと公園」2016

◎ ブレード隊走行ログ ★2016年5月5日。1年ぶりに、恒例の「ブレード隊」インラインスケート走行が行われました。今回はブレード隊の原点である「海岸線ルート」を選択。とは言え、公道はなるべく避けて通りたいので、主に農道や、海岸線のサイクリングロード(太平洋岸自転車道)を滑りました。 ただし、隊長:高橋は、年齢による体力の衰えと、足首周りの故障のため、インラインスケートではなく、より消耗の少ないキックスケーター(左写真・もちろん大人用)を使用しています。そのため、カメラは手持ちではなく、スケーターに直接取り付けまして、そのせいで、動画には振動とカラカラと言う車輪のノイズがかなり入っております。 さて、1992年に、初のインラインスケートによる長距離走行「八王子 - 富士吉田・約80km」を行ったときは、国道413号の公道にもかかわらず、すれ違う沿道の人々に歓迎され、励まされ、ついには白バイの警察官にまで、わざわざ拡声器で「ガンバレ!」との応援をいただき、力を得て進んだものですが・・ 包容力に満ちたあの時代から二十数年・・ ネット社会になってからと言うもの、正義の名の下に、自分たちの意にそぐわない者は、立ち上がることも出来ないほど寄ってたかって潰される、と言う現状を見るにつけ、世代が入れ替わり、「包容力」の意味も通じなくなったかのような世の中で、今になって、あえて一般道を滑るのはどんなもんだろう?、と言う不安も確かに有りました。 ですが、すれ違う農家の方々はみな好意的で、みな会釈してくれたし、笑顔で「楽しそう!」とか「頑張って!」とも声をかけていただきました。‥‥まことにありがたい話しです。農道は公道ではなく私道扱いなので、言わば人んちの庭を滑っているようなもの。なのでもちろん、こちらから頭を下げて通らせていただきましたよ。 いちおう、法律的な解釈を以下に記しておきます。 道路交通法第76条(禁止行為) 「交通のひんぱんな道路において、 球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること」 動画を見てもらえれば分かりますが、「交通のひんぱんな道路」と言う条件には当てはまらず、よって禁止行為には当たらないことになります。むしろ動画は、映像にアクセントをつけるため、数十分のストックの中から、わざと車の写ってる部分をピックアップしたくらいです。条件を考慮せず

「渡良瀬川自転車道」2011

<渡良瀬川自転車道「小俣 - 藤岡 37.6km」2011> ◎ EveryTrai「小俣ー藤岡 ルートログ」 ★「3.11東日本大震災」以来ずっと、「今年はムリなのかも知れない」と想っていましたが、けっきょくまた行って来ました。5月3日、JR両毛線「小俣駅」に集合、目標ゴールは渡良瀬遊水池です。 震災直後、3月12日の野球はさすがにキャンセルし、次回以降に期待しようと想いました。ですが、震災の全貌が明らかになるに連れ、「もはや野球どころじゃないだろう・・」との気持ちが強くなって行ったのです。 試合を予定していた数チームからも、そして審判の方からも「中止やむなし。ゴブリンズの判断にお任せします」の連絡が届き、以後の数試合について、いよいよ決断を迫られることになりました。で、震災から2、3日後でしたか、これは阪神淡路の時とはまるで規模が違う、破滅的な大震災だ、ヘタをすると日本経済沈没の危機になりかねない、との直感が働くようになりました。 ならば、ここは自粛では無く、あえて野球を決行、そして参加するほんの20名ほどではあるけれど、震災報道で滅入った気持ちをリフレッシュし、月曜からの仕事に打ち込むことが出来れば、微弱ながら日本経済に貢献できるかも知れない、そう想ったのです。 たかが1草野球チームの決断でしたが、あれで正解だったと想います。その後、被災地の方から「過剰な自粛をせず普通の暮らしをして欲しい。それが被災地の復興につながる」との発言をもらい、自分たちの考えが正しかったことを確認できました。 そうして、これらのことが重なり、中止になりかけていた「ブレード隊2011計画」も復活、「自粛よりも普通の暮らしを」との声を頼りに、目出たく?決行の運びとなったわけなのです。 それにしても東京都知事の、東京大空襲まで引き合いにした「自粛強制発言」にはガッカリしましたね。ずぶの素人でも行き着いた近未来ビジョンを、プロの政治家がイメージ出来なかったんですから。 同知事からは「震災は天罰だ」との暴言も飛び出すなど、ホントにガッカリな人物です。ホントは辞めて欲しかったんですが、ナゼか?選挙で当選してしまっては仕方ありません。まあ、せいぜい頑張ってもらうしかないですな。 さて、とりあえず決行は決まったのですが、予定していたルート「りんりんロード」は、新妻隊員の都合により不可となり、急遽「渡

「手賀沼周回ルートへ行った、が・・」2013

 ★今年も、連休中の5月4日にブレード走行に行って来ました。 写真を見ただけなら、天気が良くて道もキレイで、最高のブレード走行のように見えますが、じつは想いのほか路面が粗く、ずいぶん苦労したのです。 これは自転車にはちょうどいいかも知れませんが、ホイールの小さいインラインスケートには、細かな振動が直接足に響いて来て、正直、疲れました。 まあ、以前の、一般道を滑っていた頃のブレード隊にしてみれば、むしろ上等と言えるくらいのものなのですが、いかんせん、近年我々は、滑らかな路面に慣れ過ぎてしまっていたのです。特に昨年の印旛沼の路面がなかなか良かったので、その比較で、どうしても「ちょっと粗いなあ」と感じざるを得なかったのです。あと一見、舗装道路に見える、じつは「ウレタン道路?」が、滑りが止まって予想以上にキツかったです。 それと、例年のブレード隊のイメージからすると、若干人出が多過ぎた・・ ここはサイクリストには有名なコースだと言うこと、また、ランニングをする人も多く、ブレード隊は肩身の狭い想いをすることとなったわけです。 ただ一つ、どうも気になったことが有りまして、それは、ランニングをする人とすれ違う時に、彼らはまったく道を譲ろうとする気配が無かったことです。我々はずっと前(20年以上前?)から、出来るだけ他人様の迷惑にならぬようにとやって来まして、そう言う意識なので、この日ももちろん我々の方から先に道を譲りました。 しかしながら、そうは言っても、その中の1人くらいは「一瞬、道を譲るそぶり」くらいあってもいいんじゃないか?そう想ったのですが、そう言うランナーはただの1人もおらず、とにかく何の迷いも無く?一直線に我々に向かって迫って来るので、ずいぶん怖い想いをしたのです。 そんなにブレード隊はキラわれているのだろうか?とも想ったですが、歩行者に対しても同様の威圧的走りをしているので、ちょっとビックリしてしまいました。 ブレード隊のN隊員は、マラソン大会に出ることもある「ランナー」のお仲間でもあるので、彼らのことを擁護していましたが、このごろニュースなどで、皇居周辺で走るランナーが観光客と激突し、特に老人に大怪我をさせる事故が多発なんて話しを聞いていたので、「なるほど、ヤツらもこんな乱暴な感じなのだな」と、変に納得してしまいました。 かく言う自分も、かつては毎日最低5kmは

GOBLINS・ブレード隊とは?

★ 「ブレード隊とは?」 草野球チーム・ゴブリンズを母体とし、そのメンバーの中から、インラインスケートによる長距離走行をするために集まったチーム。 1990年、元ゴブリンズのメンバーで当時NY在住のM氏から、セントラルパークで流行し始めていた「ローラーブレード・ゼトラ303」を、ゴブリンズのキャプテン高橋が、帰国土産として手渡されたことから始まる前代未聞の旅のお話しである。  記念すべき最初の走行は、高橋による単独走行。ローラーブレードを手に入れてから2年後の1992年6月、「道志道」と呼ばれたアップダウンの険しい*国道413を、八王子から富士山(山中湖)を目指して、単独インラインスケートによる約80kmを、二日かけて走破することに成功した。 (*国道413:2020東京オリンピック自転車ロードレースのコースとなった道) 2006年までに走破した全ルート 同じ1992年の8月、その話しに興味を持ったゴブリンズ新人で10歳下の新妻が初参加。インラインスケートによって、千葉駅から天津小湊の民宿までの162.2kmを、真夏の炎天下、四日間かけて二人で走破。これが後々、伝説として語り継がれる?「ブレード隊」誕生の瞬間であった。 「ブレード隊命名」・・当時の日本では、まだ「インラインスケート」との呼び名は無く、一列に並んだローラースケートは全て「ローラーブレード」と呼ばれていた。そこで我々も複数メンバーによる走行を略して「ブレード隊」と呼ぶことにした。 しかし、まだ動画はおろか携帯電話さえ無い時代。それゆえ、当初は高橋による手記「走行記」と言う形で発表。その後、初の記録動画としてまとめられるまでには、さらに20年以上の歳月が過ぎるのを待たねばならなかった。(動画はYouTube:一部は限定公開) 動画以前、走行記の目次 ◇ ブレード走行記(文章形式)目次

「茨城46億年後の一期一会 .2」1996

1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来