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「幻のBOSO100マイル .前編」1994

12
千葉 - 鴨川・ブレード走行記(白浜でリアタイア)

目次


南房総フラワーラインを、独りのブレードランナーが滑って行った。車を走らせていた海水浴帰りの若い男女が、その姿を見たのだと言う。いや、見たような気がする・・、と二人は顔を見合わせた。そしてそれ以上のことは何も解らなかった。

彼はほんとうに、この道を来たのだろうか。その二人連れが、風を見まちがえたのではないかと想えてならなかった。その日は確か、八月一番最後の、一番熱い南風が吹き抜けていたはずなのだ。


目の前に、ゆっくりと一塊の黒い雲が流れて来るのを見ていた。

見晴らしの良い田舎道から眺めていると、雲は光って二度三度大きく振動し、それまで陽が照っていた大地へ、すーっと影を寄せてくるのだった。

後ろを振り返ると、まだ鮮やかな青い空も見えていた。しかし、それもやがて雲に覆われると、それまでじっと暑さに堪えていた木々が、風に煽られ、不安げな音を立て始める。裏返る木の葉が、まるで〃白目〃をむいているかのようだ。

雨は予想していなかった。
「まさか、朝からくるのか?」

そう想ってから数分もたたない内だった。一つぶ、二つぶと、大きな滴が音を立てて地面に落ち、さらに幾度かの雷鳴のあと、立て続けに雨が落ち始めたのだ。

キャプテンは慌てて、木々が覆いかぶさっている場所まで滑り、そこで休むことにした。その直後、あとから自転車に乗ってやって来た地元の少年らしい一群も、キャプテンを少し追い越したところで止まった。彼らの視線は、ブレード姿のキャプテンと暗くなった空とを行き来していた。

それからさらに雨は勢いを増し、ザザーッと言う、ドキドキするような激しい雨音と共に、舞い上がった水しぶきで、道の両側の畑が見えなくなった。そして不意に、冷たくなった風に運ばれて、辺りには雨と土ぼこりの匂いが立ち込め始めたのである。それは、長く続いていた夏の日照りの匂いでもあった。

キャプテンは雨の中を吹き抜けて来る風に、今日初めて心地よい気分を味わっていた。気温がぐんぐん下がって行くのが解る。温度計は30℃を示していた。今朝、キャンプ場を出発する時点で33℃を越えていたから、ずいぶん楽に感じられる。

いい気持ちだ。・・これだからやめられない。
雨と地面のいい匂いが、心の奥のたまらなく懐かしいものを呼び起こそうとしていた。とても懐かしい人を想い出せそうな気がした。

いい雨だった。
さっき、この雨が降るまではひどく気分が悪くて、昨日の疲れとひどい筋肉痛に悩まされていた。それに、あふれ出る汗がしょっぱくないのだ。スポーツ・ドリンクは飲み続けているから、突然心臓が止まると言うことは無いと想うが、身体中の塩分が出切ってしまったようで不安だ。

そう言えば、昨日の昼から食事らしい食事はしていない。今朝はコーヒーと固形カロリーメイト。それに、わかめスープを飲んだきりである。それ以上はまったく食欲が無かった。しかし今はずいぶん気分が良くなって、そうだ、どこかでそばを食おう、大盛りそば、それから冷やしトマト、と言う気持ちになっていた。

雨が小降りになる頃、キャプテンは少年達よりも先に道路に飛び出していた。
雨もいい・・。一度そう決めてしまうと気にはならなかった。タイヤのグリップさえ気をつければどうと言うことはない。それにこれは通り雨だ。

ほどなく、キャプテンが滑り出すのに触発されたのか、少年達の出発の合図が聞こえた。彼らはしばらく、つかず離れずついて来て、何かしきりに騒いでいたのだが、何げなく振り返ると、いつの間にか何処かへいなくなっていた。

また独りになってしまったか・・
そんな想いが一瞬頭を過った。


昨日の今頃は、強烈な陽射しで16号の路面温度は40℃を越えていた。この熱さと、キャンプ用具一式を詰め込んだ13kgの荷物のために、予定が大幅に狂ってしまったのである。

当初2年前と同様に、1時間ごとに10分間の休憩とスポーツ・ドリンク1本、の予定が、10時に千葉駅を出発してから12時までに、5回の休憩と、サービス増量中の500mlアクエリアス5本を飲み干していた。つまり今回は30分ともたなかったのである。

いくら浸透性の良いスポーツ・ドリンクと言えども、短時間に2リットルを越える水分はさすがに胃に堪えた。やがて全く食欲が無くなり、そのまま昼食も取らずに滑り続けることになってしまった。

そのままのペースで6時間滑り続けて、木更津に着いたのが午後4時頃。前回2年前はここで1日目が終了したのだが、今回はさらに20kmほど先の富津岬まで行ってキャンプする予定である。

ところが、もう身体はボロボロ状態になっていた。強い西日が殺人光線のように顔面に照りつけ、皮膚がヒリヒリと痛み始める。水分の取り過ぎで、腹具合もなんとなくおかしい。身体に変調の兆しを感じながら、富津岬へと続く16号を滑り始めなければならなかった。

木更津から先の16号は、道の両側を小高い山に囲まれた寂しい道だった。足元には狭い路側帯が有るだけで、歩道は無く、歩行者や自転車も見当たらない。その上、時速70km近い速度で、大型トラックが何台もすぐ脇を擦り抜けて行く。

この道は本当にキャンプ場へ続いているのか? そんな不安にさいなまれた。

途中、火力発電所とか、あるいは人気の無いとてつもなく巨大な倉庫や工場が見えて来ると、やっぱり木更津まで引き返そうかと弱気になった。赤い西日のせいで、風景がさらに荒涼としたものに見える。後悔がやたら込み上げて来る。

風景だけが頼りなのだ。ブレード・ランナーは、長時間荒れ果てた風景の中を走っていると、次第に神経がやられてしまうのである。

この土地もまた、悲しい荒野のようだった。

もうろうとして滑り行くブレード・ランナー。力尽きるのも時間の問題かと想われたそのとき、反対側から来る車の多くが海水浴帰りであることに気づき、消えかけた心に再び火が灯る。地図によれば、キャンプ場と海水浴場とは同じ場所にあるはずだった。だとすれば、彼らが来る方向には絶対にキャンプ場が有る、それだけは確かだ。

さらに、すれ違う車の何台かに、「ガンバレ!」の声をかけられると、より力が湧き上がるのを感じた。見も知らぬ人々の、それも一瞬のひやかしかも知れないその言葉の威力に、独り感動していた。『言葉は神なりき』・・聖書の一説が、頭の中に浮かぶ。

しばらくして建物の類いが見えなくなり、今度は大平原かと想えるような広大な風景が開けて来た。畑なのか、ただ何も無い土地なのか、記憶は漠然として残っていない。

土地が広くなって道も広くなり、両側には出来立てのきれいな歩道が現れた。これでようやく一息つける。このままこれが続けばいいのだが・・

気温は下がる気配無く、したたり落ちる汗も変わらない。もはや休憩しようと言う気持ちさえ起こらず、とにかく早くたどり着きたい、その想いだけになっていた。・・なのに風景が広すぎて、なかなか前に進まない。

キャプテンは自分に言い聞かせた。
「とにかく真っすぐ進むのだ、真っすぐ」
「いや待て・・?。ここは一度通った場所だ。見覚えが有る。しまった!。いつの間にか逆走してしまったのか?」

あわてて100mほど引き返す。すると見えて来た道路表示には、『↑木更津』と有る。おかしい。これでは逆戻りしてしまう。やっぱりあっちで良かったのか?

キャプテンの精神は、極度の疲労から、軽い錯乱とデジャ・ビュを起こし始めていたらしい。磁石で正しい方角を確かめ、もう一度元の道へと戻った。だがその後も、先へ進むほど、ずっと以前この道を通った記憶がある、と言う感覚が込み上げて仕方がなかった。

午後6時を過ぎ、辺りが薄暗くなるころ、漁師町らしい場所に入った。そこから少し道に迷って、やっとのことで富津岬のキャンプ場にたどり着くことが出来た。

着いてしばらくの間は、体中に痛みが走り、地面にうずくまったまま何もすることが出来なかった。30分ぐらいボンヤリと他のテントの様子を見ていた。若い男女や親子連れが、にぎやかに食事の支度をしているところだった。

それから気を取り直し、テントを張って、キャンプ場のはずれに設置されたシャワーのぬるい水を浴びると、少し気分は良くなった。だが食欲は無く、身体全体が異常な熱を発していた。

とりあえず、漁師町の酒屋で買っておいたビールで独りだけの乾杯をしたが、錆びたような味がして、半分ほどで喉を通らなくなった。以前、肝臓を悪くしたときと同じ味だった。少し肝機能が弱っているのかも知れない。

何か食べなければと想い、フリーズドライのキノコ・リゾットをお湯で戻して、無理やり口に入れたが、ムカついて戻しそうになった。しかし何も食べないのはまずいだろうと、水と交互に口に入れては飲み込んだ。

食器を片付けると、もうそれ以上は起きていることが困難で、マットを敷き、シュラフをかぶって横になった。ところが、身体中から発する熱が治まらず、熱くて眠れないのだ。やがて頭痛も起こり始め、おまけに港が近いらしく、船のエンジン音と霧笛がひっきりなしに聞こえて、ますます目が冴えてしまう。

このままでは一睡も出来ずに夜明けを迎えてしまうかも知れない、そう考えて怖くなった。この激しい疲労に加え、食欲無し、睡眠不足となれば、明日は間違い無く何処かで倒れてしまうだろう。リタイアだけは、どうしても避けたかった。

キャプテンは一度起きてテントから出ると、夜風にあたりながら、キャンプ場から少し離れたところにある公衆電話へと向かった。気分転換に、鴨川キャンプの幹事である遠藤君に、途中経過を報告しておこうと想ったのだ。(鴨川キャンプ:ゴブリンズの夏季合宿。ようするに海水浴)

ところが、電話にたどり着き、話し始めた途端に、
「熱すぎてダメだ。もうオレは真夏のブレード走行は二度とやらないだろう。これからどうなるか、まったくわからん。とにかく明日、もう一度滑ってはみるけど・・」そんなことを話していた。

「そういう言い方、初めて聞きました」
遠藤君のその返事を聞いて、キャプテンは自分がひどく弱気になっていることに気づいた。今までならどんなひどい目に有っても、途中であきらめることなどなかっただろう。初めて、自分の正直な気持ちに気づいて、軽いショックを受けていた。だが、このまま身体の熱が下がらず、一睡も出来なかったら、ほんとに何処かで倒れてしまう。

「どうしたら熱が下がるだろう? もう一度シャワーでも浴びてみようか?」そんなことを考えながら、戻る途中、キャンプ場の土を踏んでいる内に一つのアイデアが浮かんだ。

「そうだ地面だ!」

そう想いついてテントに戻ると、急いで中のシュラフとマットを端にどかし、底のシート一枚を隔て、うつ伏せになって身体を地面に押し付けてみた。

すると・・、想った通りだった。まるで毒が吸い取られて行くように、熱病の身体が急激に地面に冷やされて行くのである。

「いま、大地に癒してもらっている」そんな感慨に包まれていた。

ほどなく楽になって、頭の芯から心地よい眠気が広がり始めて来た。寝入りばなの寒気を背中に感じ始めたところで、その眠気が消えないように、そっとシュラフに潜り込んだ。


雨が小止みになって来るころ、道は内房線沿いを走り始めた。通り雨だから、これ以上の心配はなかった。気温は30℃。30℃がこんなに涼しいものだとは想わなかった。しばらくの間この曇り空が続いてくれたら、かなりのペースで進めるはずだ。

・・と喜んだのもつかの間、急に、腹痛が起こり始めたのである。痛みと言うよりは、重い不快感と言った方がいいだろうか。それほど急を要するものでは無かったが、休憩も兼ねて、近くの駅のトイレを貸して貰うことにした。

腹痛は大したことはなく、用を足して準備をしなおすと、また出発した。車通りの少ない田舎道、今は気分もすっきりしている。ちょっとした山道だが、水分の補給に注意して、このまま体調を崩さなければ、けっこう行けそうである。道の表面は粗かったが、深い木々に囲まれた山道の風情が、気持ちを穏やかにしてくれた。

やがて歩道が現れたので、その上を行くことにする。東京湾観音を過ぎた所で、サイクリングの親子連れとすれ違った。挨拶を交わし、さらに先へ進む。道は急な下り坂となって、鉄道を渡る陸橋の上に出た。

眼下に駅と線路、その周辺の家並みが、小さく箱庭のように見えていた。そこへ思いがけなく、曇り空の透き間から薄日が射したのである。雨の滴を含んだ山の緑がキラキラと輝き、下界からはいい匂いの風が吹き上げていた。

この美しい光景を、独りで楽しむのは申し訳ない気がした。だが、快感を分かち合うには、数10kmの苛酷な工程を経なければならないのだ。

キャプテンはその坂を出来るだけゆっくりと滑り降り、風景を楽しみながら、下に見える小さな駅を目指していた。駅名を調べ、地図で今いる位置を確かめる必要があったのだ。

たどり着いてみると、そこは内房線『佐貫町駅』だった。地図によれば、駅前のT字路を左に折れると127号にぶつかることになる。そのまま真っすぐ行っても行けなくはないが、道幅が狭く歩道が無いことが気持ちを鈍らせた。

それに、前回二年前のブレード走行のとき、冷たい井戸水で水浴びをさせてくれた「しゃぶしゃぶ屋」が、127号沿いに有るはずだった。そこをもう一度覗いてみたい気持ちも手伝って、ここは左に行くことにした。

その間に、天気は随分回復し、またあのうんざりするような太陽が、照ったり陰ったりを繰り返し始めた。

127号に出たところで、今度は十字路を右に折れた。そのまま道なりに行くと、間もなくあの白い建物のしゃぶしゃぶ屋が、山を背景にして見えて来た。手前にある畑には誰もいなかった。二年前の夏は、あの畑で仕事をしていたおやじさんに水浴びを薦められたのだ。

店の前まで行って、一段高くなっている駐車場に登った。そこから入り口付近を覗いていると、まるで待っていたかのように、中年の女性が掃除機を片手に出て来たのである。

「いいわねえ」その人は笑顔を見せ、いきなりそう言った。どうやら女将さんらしい。開店前の掃除の途中のようだ。「ずうっと向こうから滑って来るのが見えたから」

女将さんとは前回は会わなかった。キャプテンは二年前のお礼をしようとしたのだが、いきさつの説明がこの場の流れを止めてしまうように想われた。

「あの、水を使わせてもらえませんか?」
とだけキャプテンは尋ね、駐車場のホースを指さすと、
「どうぞ、どうぞ、いくらでも使っていいわよ。井戸水だから冷たいよ」
 そう言って、自らかがんで蛇口をひねってくれた。

「しばらく出しっ放しにすると冷たいのが出てくるの」
 そう言ってホースから勢いよく水を出し、手で水温を確かめていた。
「学生?」女将さんは顔を上げ、そう尋ねた。こう言うことをするのは、学生に決まっている・・。その人の言葉にはそんな響きが込められていた。

キャプテンはどう答えて良いものか迷った。素直に36です、と答えるのがまっとうだが、その後に続くはずの彼女の混乱ぶりを想うと面倒だった。

二年前、東京-富士山ブレード走行の際、山中湖畔で、地元の若い新聞記者に捕まり、インタビューを受けたことがあった。そのとき、正直に34歳だと答えた瞬間、彼は凍りついてしまったのである。キャプテンは、その説明のためにかなりの時間を費やさなければならなかった。

その新聞記者の顔を想い出しながら、キャプテンは無難に、「社会人です」とだけ答えておくことにした。すると、「いいわねえ若い人は、こう言うことが出来て」と、その人はため息交じりに言ったのである。

「いいえ、オレだって、本当は36なんですから」。よっぽど言おうかと想ったが、余計なことだとも想えた。

彼女の言葉の裏に有るものは、羨望や嫉妬か、それとも単なる社交辞令か。本当なら、「いいわねえ」と言う側にいたかも知れないキャプテンには、複雑な想いが迫ってくるのだった。

それにしてもこの家族は人懐こい人ばかりだ。女将さんといい、二年前のおやじさんといい・・。ほんとうに、立ち寄って良かった。

女将さんは、キャプテンが充分に水を浴びたことを見届けると、「ゆっくり休んでいって」と言い残し、店の中に戻って行った。

するとそれと入れ替わりに、モップを持った、高校生とおぼしき、髪を亜麻色に染めた少女が出て来たのである。彼女はキャプテンのすぐ近くまで来ると、バケツに水を汲んでモップを洗い始めた。その間ずっと無言で目を伏せたままだったが、顔は終始ニコニコしていて、一度だけ目が会った瞬間に、「こんにちは」と、小さく会釈した。

おそらく女将さんの娘なのだろう。きっと好奇心いっぱいで見物しに来たのだ。
「山道だったからね」
と、水を貰った理由をそれとなく伝えて、わざと彼女に良く見えるようにブレードを履き、ニィパッドを付けた。彼女は相変わらずニコニコして、その様子を珍しそうに眺めていた。

荷物を背負い支度が整うと、キャプテンは滑って駐車場を一回りし、「それじゃあ、どうもありがとう」とお礼を言った。彼女はモップの柄を立てたまま、笑顔でうなずいた。その照れくさそうな振る舞いが、とても柔らかな気持ちにさせてくれた。

ふと見ると、店の扉の向こうでは、女将さんも笑顔で手を振っていた。キャプテンはその姿に丁寧に挨拶し、再び127号の先へと向かうのだった。

滑り始めても、しばらくの間は二人の姿がちらついていた。たとえようのない懐かしさが、キャプテンの胸に残されていた。

「もっと、たくさん話しをすれば良かった・・」
そう想いながらも、足は前へ前へと進んでいた。
「あと一回くらい、あの子を笑わせてからでも遅くはなかったはずだ」
だがもう、引き返すことは出来なかった。

けっきょく、それから二時間ほど黙々と滑り続けていた。時おり強い陽射しが照って来ると、木陰を選んでは進んだ。車通りは少なかった。道の先で逃げ水が揺れていた。

少し急な上り坂に差しかかったとき、突然ブレードの挙動がおかしくなった。グラグラとよろめくような感じである。点検して見ると、ホイールのボルトが一つ外れて無くなっていた。そこで、平たんな場所まで片足で引きずって行き、工事現場の出入り口らしき広い場所で直すことにした。

座り込んで、予備のボルトと取り替えるていると、ゲートから土砂を積んだ大型トラックが現れて止まった。

「学生か?」トラックの運転手はいきなり大きな声でそう言った。キャプテンは声のした方向を見上げ、「社会人だ!」と、ちゅうちょ無く答えた。

「そうか」そいつはそう言うなり、にこりとして走り出して行った。そのすぐ後ろにもトラックが続き、同じようにキャプテンの横で止まって、今度は30代ぐらいの女の運転手が顔を出した。

「何処まで行くの?」。彼女はそう言って窓枠にひじをかけ、修理の様子を眺めていた。「かもがわ」と、答えると彼女は、「えーっ?」と驚いたが、4日かけて行くと言うことを伝えると、納得した様子に変わった。1日で行ってしまうと勘違いしたらしい。

彼女はしばらく話しをして、これから先の道路状況を細かに教えてくれた。そのあと「気をつけてね」と言い残すと、127号を東京方面に向かって、豪快なエンジン音と共に走り去って行くのだった。

キャプテンは、今まで邪魔にされ、敵だと想っていたトラック運転手に、思いがけず励ましの声をかけられたことで、ちょっと感動していた。彼ら以外にも、道路工事をしていたニッカポッカのコワモテ兄さんに、頑張ってな! などと声をかけられる場面もあって、こりゃあ考え直さなくちゃいかん、と独り納得していたのである。

一年中、屋外で働く彼らにはむしろ、この灼熱の道路を滑ることの大変さが理解出来るのかも知れない。だからこんな酔狂な奴にでも、邪魔者扱いせず、寛大に相手をしてくれる・・。そう想うと、励ましてくれた彼らに対しても、ますますリタイアするわけにはいかないと言う気がしてくるのだった。

修理が終わり、再び滑りはじめる。そろそろ昼だったし、比較的気分も良かったので、「そば屋」を探そうと想った。しかし、途中は畑や田んぼばかりで中々見つからず、けっきょく、前回新妻君と入った「アジの天ぷら」と「アジフライ」を間違えた店までたどり着いてしまったのである。

だが、それもまたいいと想った。二年前と何処がどんな風に変わったのか、見て歩くのもいいだろう。

たとえば今日は、この先、明鐘岬の、あのおかしな男と女主人がいた『岬』と言う店を訪れるつもりなのだ。出発前、前回同行した新妻君が、「もし廃屋しか無かったらどうします?」と、冗談を言っていたが、それならそれもまた話しのタネになっていい。(南房総に夏の終わりの夢を見た:参照)

大盛そばと冷やしトマトを食べ終えて外に出ると、二年前有ったはずの、ミゼットなど軽クラッシックカーが無くなっているのに気づいた。しかしそれ以外は何も変わっていない、遠く海の見えるかずさみなとの食堂なのであった。
 


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1 ・2・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記2 1日目後半> 1日目/1996年7月31日(水)「日立駅前そば屋から日立港・旅館須賀屋まで」 ◆ あつい! ようやく夏なのか! ◆ ソバ屋から出ると、さすがハイテク繊維、Tシャツはすっかり乾いていた。 国道6号は、ここから内陸の水戸方面へ行ってしまうため、海沿いの245号へ進むことにする。合流するには駅の向こう側へ渡らなければならない。 歩いていると、日立電線、日立化成と、日立関連のビルが続く。さすが日立市である。 「この町の人々は日立の製品しか使わないのかなあ」 森広君が素朴過ぎる質問を投げかけたが、誰も答えなかった。 ブレードを履き、駅前の石畳の広場を滑って行く。間もなく陸橋を越え、線路を渡ると、245号に入った。そこにも日立の社屋が有り、社員の行き来するすぐ脇を進む。 緩やかな上り坂だが、食後なのでスローペースで進む。30分ぐらい経てばランナーズハイに持ち込めるから、それを待つ。心配なのは新妻君の足だった。先ほども説明したように、ブレードで足を痛めると、走行中は決して回復することが無い。だからこれから先、新妻君の苦痛は増すばかりと見た方がいいのだ。 ブレード走行を楽しむには、どれだけ長時間足を痛めずに保てるかの一点にかかっている。だから、そのための手間を惜しんではならない。 キャプテンなど、ソルボセインや、ワセリンなど、あらゆる手段を試みていたが、今回はくるぶし痛対策のため、粒状の『衝撃吸収ゲル』を入手、10センチ四方の布袋に入れてキルティング縫いし、それをくるぶしの上に当てている。これによって、インナーにくるぶしが当たるのを防ぎ、しかも粒状なのでムレも防げると言う仕組みになっている。これが功を奏したのか、今のところ痛みは発生していない。 245号は、昼下がりと言うこともあり、何処となくうら寂しい道だった。しかも上りがキツく、ドブ板走行も強いられた。目に映るものは、工場や倉庫、人気の無い駐車場など。車通りだけが激しい騒音を響かせていた。 30分ほど滑って日立市街地から抜けると、路側帯が広くなって、やっと一息つくことが出来た。 「歩道は路面が悪い!」と、常にモンクを飛ばしている森広君の言う通り、充分な広さを持っていれば、歩道より路側帯の方が楽だった。 だんだんいい感じになって来...

「霞ヶ浦自転車道」2009

< 霞ヶ浦自転車道「潮来 - 土浦 48.6km」2009 > ★2009年5月2日、AM8:30。ブレード隊の4名はJR鹿島線「潮来駅」で集合し、潮来 - 土浦間48kmのブレード走行を敢行しました。残念ながらゴール間近でダートになってしまい、46km地点で終わりましたが、天気も良く路面も良い、なかなかの快適走行だったと思います。 当初の予定では、昨年で終了することになってましたが、あの一回きりでは、新しく購入したインラインスケートの減価償却が出来ないとの切実な理由?から、今年も「ブレード隊2009延長戦」を決行することになったと言うわけです。 が、昨年まで書き続けて来たブレード走行記は、文体がマンネリ化したことや、最近は最後まで読む人も少ないだろうとの推測から「ひとまず完結」と言うことで、今回はまずムービーでアップすることにしました。出発から到着、そして待望のジンギスカン鍋まで、ダイジェストでご覧ください。 ★「ブレード隊2009延長戦」を終えて・・ 決行数日前に「新型インフルエンザ・パンデミックか?」の騒動があり、不穏な空気に包まれたまま、少し嫌な気持ちでの出発となったのですが、走行中はまったく別の世界の出来事で、その数時間だけは、滑ること以外は全て忘れていたような気がします。 けっきょくダートの出現で、全コース48kmを完走することは出来なかったのですが、まあ、ここまで来れば充分だろうと言うことで、昨年の40.1kmは軽く越え、46kmの走破と言うことになりました。 隊長の高橋は、前夜の準備に手間取り、睡眠時間約3時間で臨んだのですが、やはりこれは堪えました。ブレード隊4人の内では一番ダメージが大きかったようです。が、終了後の、熱い風呂とジンギスカン鍋のお陰で生き返りました。そしてその夜は、しばらくぶりの非常に気持ちの良い睡眠を味わうことが出来たのです。 そう言えば、ブレード走行全盛時は一日12時間は眠ってたなあ、なんてことも思い出し、おまけに、あの時は数日間ぶっ通しで、しかも真夏の炎天下を滑っていたかと思うと、我ながら自分の行動に呆れてしまうのです。 そして、熟睡した翌日は「忌野清志郎氏死去」のニュースで目が覚めました。高橋隊長にとっては、中学生の時初めて聞いた曲、「僕の好きな先生」が一番の思い出です。隊員たちに「忌野氏と三浦友和氏は同級生で初期のバンド仲...

「茨城46億年後の一期一会 .5」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・5・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記5 3日目前半> 8月2日・金曜日(3日目)「民宿大竹から鹿島市・グリル鹿島まで」 ◆ 呪いの見送り ◆ 荷物を担ぎ、民宿大竹の駐車場まで出て行くと、女将さん、その娘、お祖母さんが次々に姿を現した。ブレードの物珍しさゆえの見送りと言うところである。 新妻君と森広君は、すみっこの車の陰でブレードを履き始めたが、キャプテンはギャラリーへのサービスもかねて、ど真ん中で準備することにした。そうしていると、ほどなく女の子が駆けよって来た。 「それで、すべってくの?」 その子はそう尋ねた。それに、ああ、そうだよと愛想良く笑い、 「ここからねえ、ずーっと遠くまですべってくんだよう」 と、キャプテンは子供用の声で答えたのだ。ところがである。 「ウソだね!」 予想に反してカワイくない返事がかえって来たではないか。 「ほんとだよ、ほんとほんと」ちょっとあせった。だが、 「ウソだねー!」と、女の子はなおも続ける。 「ほんとだってば」 「じゃあ、東京からすべってきたの?」 「そうじゃなくて、東京から電車で来て・・」 「ああっ!。ほらー、電車なんだってー!」 その子はキャプテンの言葉尻を取って、そーら見たことかとばかり、女将さんを振り返って騒ぎ出した。 「ちがうちがう、電車で遠くまで行って、そこから滑って来たんだよ。わかる?」 「ええー?」 そこでいったんはおとなしくなったが、声は半信半疑のままである。さらにその子の攻撃は続いた。 「雨がふるよ!」ふてくされたような言い方だった。「雨がふってくるよ!」 ・・ったく、どうなってんだ? 「そうかなあ?。大丈夫だと想うよ」 「ふるよ!。てんきよほう見てみな!」 これはもう、呪いに近いものが有る。でも、確かに雨が降りそうな空だった。気温も低く、温度計を見ると21℃を示していた。寒いくらいだ。 ブレード走行は、舗装道路が無ければ前進出来ないわけで、アウトドアと呼ぶにはあまりに半端なスポーツだったが、それでも自然相手であることには違いない。雨が降ったら、それを甘んじて受け入れるしかないのである。さて、どこまでもつか・・ 女の子はいつの間にかキャプテンから離れ、他の二人のところへ駆けよって行った。その後ろ姿を見ながら「世の中には、いろんな子がいるんだなあ」と想った。 年齢の...

「筑波霞ヶ浦 りんりんロード」2008

<りんりんロード「岩瀬 - 土浦 40.1km」2008> ブレード隊の隊長?高橋の50歳引退記念走行に集まったのは、かつての古い仲間たちだった。初のブレード隊当時は高橋32歳、仲間達はみな20歳そこそこで、若さの赴くままに滑り回った彼らだったが、それぞれに歳を取っていた。果たして昔のように40.1kmを滑り切れるのか。そして男たちの旅は、本当にここで終わってしまうのか? ブレード隊の高橋隊長が50歳を迎え、引退記念走行ということで、日本全国に散らばった?隊員たちを呼び集め、「最後のブレード走行」が行われました。集合はJR水戸線「岩瀬駅」。コースは土浦までの「りんりんロード40.1km」です。 ブレード隊が揃うのは1996年以来じつに12年ぶり、皆それぞれに歳を取っていました。1996年時の旅は「茨城・高萩 〜 千葉・犬吠埼」の約144km。当時は一般道を果敢に滑っていたのですが、高齢化と共に法律スレスレの無茶も出来なくなり、今回はおとなしく?サイクリングロードでの旅となりました。 ・・とは言いながら、最後のつもりが、滑り終えた達成感がかえって隊員たちの闘争心を刺激したらしく、早くも次回「高齢ブレード隊」の可能性で盛り上がったのでした。  JR水戸線「岩瀬駅」駅前。茨城のりんりんロードを滑ります スタート!。のどかでキレイな田園風景 菜の花ロード。5km経過、カメラポイントです いい天気!。快調に滑ってます! うねうね? 波打ちロードゾーン。遊び心だそうです 18k地点、暑いので日陰で休憩。昔より疲労度合いが大きい 午後の滑走。昼食を終え休養十分、再び滑り始めます 八重桜が植えられていた。疲労のためみな無口・・ 最後の10km。西日を受けてラストスパート! 霞ヶ浦近くでゴール!。あとは風呂とビールです! ニイツマ家で宿泊、朝食のあとの一服   

「茨城46億年後の一期一会 .6」1996

1 ・ 2 ・ 3 ・ 4 ・ 5 ・ 6 ・ 7 <高萩 - 犬吠埼・ブレード走行記6 3日目後半> 8月2日・金曜日(3日目)「グリル鹿島から波崎町・割烹旅館かわたけまで」 ◆ 今頃ソルボセインかよ・・ ◆ 出掛けに、鹿嶋市パンフレットの地図でスポーツ用品店を見つけていた新妻君が、「ソルボセインの中敷きを買う」と言い出した。なんと、彼はまだソルボセインを使っていなかったのである。 『ソルボセイン』とは、10m以上の高さから生玉子を落としても割れない、と言うほどの衝撃吸収材だが、同様の『αゲル』などと比べると「コシ」が強いので、靴底に入れてもフニャフニャした違和感が無く、自然な使い心地の代物なのである。 これをブレード・ブーツの底に敷くと、アスファルトからの振動を吸収して足を保護でき、疲労もかなり防げる。したがって、キャプテンは以前から、ブレード走行を始める者には『ソルボセイン』を使え、と言い続けて来た。 当然、新妻君もそれを耳にしていたはずで、とっくに使用しているものと想い込んでいたのだが、彼は「そんなことより、ブレードは滑ってなんぼ」とばかり、堅い中敷きのままで間に合わせていたのである。確かに、他人のアドバイスより自らの感覚を信じる、と言うやり方は正しいが、それは継続することにより養われるもので、一発屋には馴染まない。 グリル鹿島から町外れまで滑って行き、『スポーツ101』と言う、この辺りにしては大きめのスポーツ用品店を見つけた。新妻君はそこで『ソルボ中敷き』を購入、店の中で自分の足の大きさにカットして出て来た。 「なんだこれは!? 振動が無い!」 さっそくブレードの底に敷いて滑り始めたその直後の一声である。絶大なるソルボ効果に感動したのだろうか。もちろん一度痛めた足が治ることは無いが、このさき数時間の延命効果としては充分役に立つ。それにしても、最初から使っていれば・・ スポーツ101から離れてしばらくの間は、新妻君に応急処置が施されたことで、少し気を楽にして滑ることが出来た。すでに国道51号からは離れ、124号を進んでいた。 道沿いには、まばらだが、店やレストラン、町工場、中古車ディーラーなどが並んでいた。そこから幾つかの林をくぐり抜け、緩やかな坂道を下り、小ぎれいな民家の立ち並ぶ通りに差しかかった。 そこをさらに進んで、信号待ちで渋滞している交差点が見えて...

「湘南の海、エンドー苦難の道」1993

< 横須賀 - 茅ヶ崎・ブレード走行記 > 1993年。ゴブリンズ・ブレード隊、キャプテン高橋と遠藤忠隊員は、10月23日と24日の二日間に渡り、三浦半島の横須賀から茅ヶ崎まで、約75kmを無事完走したと発表。この完走によりキャプテン高橋の通算走行距離は359.4kmとなった。                    目次 うれしはずかし出発の時 三浦海岸! これを見に来た 遠藤殺しの坂が待っていた 史上最大のピンチである?! ついにブレード隊、初の野宿なのか・・? 二日目、最高の出発 湘南・超観光ルートを行く 日曜の午後の終わり ◇ うれしはずかし出発の時   ◇ 「だめだ、間に合わん!」 時計を見ると、7時55分。東急東横線の急行はたった今、 渋谷を出発したばかりだった。約束は横浜駅の改札に8時だが、この分では8時半ごろになってしまうだろう。昨晩、荷物の用意をしている内に夜が更けてしまい、キャプテンは今朝少し寝過ごした。しかし興奮のあまり眠れなくなった訳では無い。もう子供ではないのだ。 ドア際の窓から空を覗くと、雲は多めだが気持ちの良い秋晴れ。10月23日(土)、この週末の天気に問題は無い。ただ、なぜか寒さがとても心配だった。必要以上に気にしてしまったのは、第三次ブレード隊『富士五湖周回走行10.24』からちょうど1年、あの富士山麓の標高の高さと、降りしきる雨の記憶のせいに違いなかった。 予想した通り8時30分に横浜駅に着いた。改札を出ると、憮然とした遠藤隊員の姿が有った。「悪い、悪い。寝過ごした」仕方なくキャプテンは笑ってごまかすのだった。 日頃、野球の試合などでは、周囲から時間に厳格だと思い込まれているキャプテンだが、何を隠そう、中学・高校の6年間、常に遅刻回数・学年トップを誇って来たクセ者なのである。その頃の1年間の平均遅刻数は約70個。これは野球に例えれば『盗塁王』に匹敵するのはないかと一部ではささやかれているが、さて、どんなもんだろう・・ 二人はそこから京浜急行に乗り換え、横須賀中央駅へと向かった。気温24.3度、まずまずの走行日和だ。このくらいの陽射しが有れば、走っている内に体温の上昇でちょうど良くなって来るはずである。間近に迫った出発に備えて色々と考えは及ぶ。もう一人の隊員、新妻氏は、なんだかんだと急用が出来て、今日は来れなくなった。 横須賀...